虐待防止?~子どもの自主性や子どもの世界はどこに?

 今月初めごろに、自民党埼玉県議団が、既に制定されている県の児童虐待防止条例の改正案を議会に提出、10月6日に委員会で可決、と報道されました。その改正案の内容は、小学校1~3年生までの子どもだけでの登下校禁止、留守番やおつかいも禁止、子どもだけで公園で遊ばせるのも、自宅でも18歳未満のきょうだいに預けて保護者が出かけるのも「子どもを放置した」とされ、またそういう事象を見た者は、(児童相談所などに)通報する義務がある、というような内容だと報道されました。報道されていることが事実だとすると、子どもだけで築く世界を否定され、常に大人の目にさらされながら生きなくてはいけない窮屈なものになってしまいます。もちろん、共働き家庭やひとり親家庭にとって、およそ現実的ではないことを求められる理不尽さがあることは言うまでもありません。このような条例改正案を提出される背景の一つには、車や自宅に、乳幼児を長時間放置し、その乳幼児が亡くなる事件が後を絶たないということや子どもの誘拐事件もあることなどを踏まえてという理屈もあるのだとは思います。なので、どこまで子どもだけの世界を大事に思えるのか・できるのか、ということと、子どもの命を守るということのバランスをどこでとるのか、ということでもあるのだとは思います。(それにしても、例えばイランのアッバス・キアロスタミ監督の「友だちのうちはどこ?」で描かれたような友達の忘れものを届けに、隣村の友達の家を探しに行く、というような友情物語は、このような条例が制定されてしまえば成立しなくなってしまいます)
 共働き家庭やひとり親家庭の立場、また私たち子どもの生活支援に携わっている者からすれば、今回の条例改正案に決定的に欠けているのは、学童保育やベビーシッターなどの制度が、全国的に見て決して充実しているわけではない社会で、保護者にだけ子どもを見守る責を負わせようとして、子どもは社会の宝で、社会で育てていくものだという視点・価値観と思えます。子どもは、第一義的には保護者が育てていく責務があるとは言えるでしょうが、何から何まで保護者が背負わなければならない、という価値観が改正案の元にあるように思えます。このような価値観が、当初、子ども庁となるはずだった省庁が、こども家庭庁という名称に変更された所以と思えます。今回、条例改正案は多くの反対意見が寄せられて、撤回、今のところ再提出の予定はないということですが、同様な視点や価値観によった法制定や条例制定の動きが今後も出てくる恐れがあることには注視しないといけないかと思います。そして、何よりも子ども自身の思いや権利がないがしろにされていないか、ということに危機感をもつものです。

                                                                森