知覚の変化と子どもの生活環境

 前回のこのブログで、共通感覚という言葉について、哲学者・中村雄二郎の『共通感覚論』という著作に触れました。その『共通感覚論』では、視覚優位とされる人間の知覚について捉え直しをしていて、例えば、視覚と触覚が結びついた動き(運動感覚につながるもの)や視覚の錯覚(エッシャーの絵画などでみられること)などについても論述されています。その考え方に立つと、発達障害者でよく言われる視覚優位や視覚提示についても、それはそれとして認識しておくにしても他の感覚器官との連動性の方に、もっと目を向けた方がいいようにも思えてきます。
 意識とは、必ず何物かについて、つまり意識する対象があって、初めて意識とは存在するということにまずは気づきます(このことを明言したのが、現象学だと思います)。つまり私は、何を意識に上らせるのか、同様に子どもたちは、何を意識に上らせているのか、を省みる必要があるように思います。それ(意識される対象)が、例えば、すみっこぐらしだったり、アンパンマンだったり、電車や車だったり、犬や猫だったり、○○さんや△△ちゃん、というように。で、その意識は多くは、視覚に訴えるものかもしれませんが、例えば好きな歌があれば聴覚から得られるものですし、花であれば視覚だったりあるいは嗅覚にも関係するかもしれません。食べ物であれば、人や経験値にもよりますが、食欲をそそるのは(或いは逆に敬遠するのは)視覚より嗅覚の方が優位かもしれません。そして実際に食べて味覚に繋がります。なので視覚ばかりを強調するのではなく、いわゆる五感を駆使して、ということがもっと強調されてもいいのかもしれません。(こういう視点に立つと、ビジョントレーニングが持つ意味はどうとらえられるでしょうか? 勉強不足ゆえ、今の私にはそれを位置づける考えを持ち合わせておりません。)

 ところで、この私たちがもつ知覚は、私たちが自覚している以上に、自然(物理)環境に左右されるということを、いくつかのエピソードで知ることができます。例えば、真木悠介という社会学者の『気流の鳴る音』(ちくま学芸文庫)という著作の冒頭に、メキシコに在住しているある日本人の画家が、ある暑い日に原住民の人と川で水に浸かっている時間を送っていたところ、とつぜん一人の青年が立ち上がり森林を走り始めたが、画家にはそれがなぜか初めは理解できない、ところが15分ほど経ってその画家の耳に遠く機音が聞こえ始める。その未開の地にも、時折、白人の研究者がセスナ機をチャーターしてやって来て、原住民が狩猟のために必要な火薬や銃弾を持ってきてくれるので、青年は信じられない程の遠い距離からの機音を聞きつけ走り出した、という話が紹介されています。日本人の画家と原住民の青年とのその聴覚の大いなる差。また、芸能ネタなので割り引いておさえる話ではありますが、ギニア出身のオスマン・サンコン氏が、来日したころは6.0の視力で1km先も見えていたが、数十年にわたる日本での生活を重ねて、1.2ぐらいの視力になったと語っているそうです。
 この二つのエピソードから教えられることは、私たちが普段あまり自覚化されることのない自然・物理環境によって、感覚器官の作用がいかに左右されているかということです。その意味では、子どもの生活世界にとっても、日頃から自然環境も含めた豊かな環境(何をもって「豊か」というかも捉え直しがいるかとは思いますが)の中で育っていくかが大切なことの一つのように思います。もちろん、それは私たち大人にとってでもあり、パソコンやスマホ、タブレットなどによる目の酷使ということも省みる必要がありそうです。こういう視点が、子どもたちへの支援を考える上でも大切なことであると思います。

                                                  森