共通感覚と固有の感覚
先日(11/9)の雨で消えてしまったように感じていますが、今年は10月の終わりごろから、街に出るとキンモクセイの香りがどこからともなく流れてきて、秋が深まってきたと感じるようにいつの頃からか思うようになりました。しかし少なくとも私は20代のころまで、その香りを意識に上らせることはなかったのです。誰かと同じ空間に居て、目に見えることや耳に入ってくることは、比較的共有しやすいものです。自分が意識していなくても誰かに言ってもらうと、気づくことが多いものです。ですが、嗅覚に訴える香り・匂いというのは、仮に誰かに言われたとしてもなかなか気づきにくいものです。いや、そもそも私自身の意識(志向)が花の香りにあまり向いていなかったということなのかもしれません。そう思い返してみれば、春先に漂ってくるジンチョウゲの香りにもキンモクセイよりかは、先に気づいていたように思いますが、それがジンチョウゲという花の香りだということを知った(認識できた)のは、だいぶ経ってから(おそらく30代になってから)のことでした。
視覚にせよ、聴覚にせよ、誰かと、と言うより、その社会に居る多くの人と認知・認識を共にできることを共通感覚と言います(この言葉は、中村雄二郎という哲学者が『共通感覚論』という著書を1979年に発刊してから共有されるようになった言葉です)。この共通感覚は、一般的には人は視覚優位と言われているので、視覚や聴覚で共有しやすいかと思われますが、時には嗅覚や味覚、あるいは皮膚感覚(触覚、冷覚、温覚、痛覚、圧覚)も共有されます。その環境・状況により、そのことを強烈に感じることがあるでしょう。例えば、焼き肉や焼き鳥の香とか、氷点下にもなるところに身を置かれた時などは、視覚や聴覚よりも、まず嗅覚だったり、冷覚を共有することになるでしょう。もちろん、視覚障害があったり、聴覚障害があると、ほかの感覚器官を駆使して、外界の知覚を得ようと身体は働くでしょう。
ですが、他方、私がジンチョウゲやキンモクセイの香りに気づき、そのことを認識するのにずいぶんの月日を要したように、人それぞれに敏感な感覚だったり、逆に鈍麻だったりすることは、仮に感覚器官にはっきりした障害がなかったとしても、思いのほか多いことに気づきます。同じ空間・同じ時間を共にしていても、そこにいる一人一人の人が、何を感じ、何に気づいているかは、かなり違うものだということに、まず私たちは自覚しないといけないのではないかと思います。そして、それがより多くの人が感じているところから遠く離れているとみなされると、発達障害の特徴の一つと見られることになって、そのことでその人が生きづらくなっているのであれば、配慮がいるということが共有されるようになります。なので、考え方としては、「○○障害」という捉え方よりも、共通感覚と固有の感覚という視点に立って捉えた方が、人の心性を認識するのにより近づけるのではないかと今は思っています。
森