「正しさ」に対する懐疑
前回のこのブログでも書いた現在のNHKの朝ドラ「あんぱん」、現在は戦後7~8年経過していて、準主人公の嵩が稀代の漫画家・手嶌治虫(手塚治虫がモデル)と出会うところまで物語が進んできていますが、やはりこの連ドラの中盤の山場は、敗戦前後でしょう。日本が戦争に負け、それまで”愛国の鑑”とほめたたえられていた主人公・のぶが、教師として子どもたちに間違った教育を行ったことへの悔悟にさいなまれますが、その時に幼馴染で戦地から帰ってきた嵩は、「正義なんて信じちゃダメなんだ。そんなものは簡単にひっくり返るのだから。」とのぶに諭す場面がありました。その戦時経験が、後に逆転しない正義は何か、を追究していった結節点として、「アンパンマン」の誕生に至るのですが、「正しい」という言葉が使われることに対する拒否感は、「客観的」「客観性」という言葉が使われるときと同様な思いを私は抱きます。そもそも自然科学と違って、人文科学・社会科学分野は、何が正しくて、何が間違っているかというのは、時代や状況、社会あるいは文化によっても、いろんな見方・価値観があり一様ではないかと思います。絶対的な正義を振りかざすことの胡散臭さを私は感じていて、歳を追うほどにその思いは強くなってきています。
この想いは、子どもの育ちをどう見るか、どういうところを大切にするのか、ということでも、同様な思い・考えを抱きます。できないことをできるようにするのか、苦手なことを克服するようにしていくのか、あるいは得意なことを伸ばして、苦手なことには目をつぶるのか、子どもに好きなことをさせることを基本にするのか、やるべきこと(そもそも何をもってやるべきことか、という議論も当然あるでしょう)をしっかりやっていくことを旨とするのか、いろんな考え方があり、「訓練(トレーニング)」というのか、「支援」というのか「ケア」と呼ぶのか、それぞれの価値観・価値意識があり、そのどれもが絶対とは言えないと私には思えます。なので、ここでも大事なのは、常に自分の価値観(それはまた他者一人一人の価値観も)を相対化すること、点検すること、再考することだと思います。その意味では、さまざまな考え方、価値観、支援の手法などをできる限り知っていく作業も必要なことだと思います。フランスの哲学者、メルロ・ポンティが言うように、私たちの最大の反省は、非反省的な生活に依存していることを知ることだ、ということですから、自身が育ってきた環境・文化などを相対化する意識は常に持っておかねばならないでしょう。
森