「強度行動障害」と名付けることの功罪

 日本の障害福祉にかかわる行政や施設・事業所、関係者の間では、いつのころからか強度行動障害という概念が生まれ、今や「きょうこう」という関係者にしかわからない略語まで一定、定着したように感じられる昨今ですが、この医学用語でもない用語が用いられることの功罪の両面を見ておかないと、強度行動障害といわれてしまっている人の内面やそれを反映した行動に対する見方が歪んだもの、もしくは限られた一面しかとらえらなくなってしまわないかと危惧してせずにはおれません。危険予知ができず、気になるもの・ことがあると突っ走ってしまう、あるいはそこに固執して行動が停止する、自傷や他害があるといった状態(事象)が見られたときに、それを強度行動障害とカテゴライズすることは、数十年前に「動く重症児」と言って、支援しにくい障害児・者の支援を立てるときに用いられた用語と類似した考え方(捉え方)と言えるのではないかと思います。
 「強度行動障害」と名付けることの功は、なぜ強度行動障害といわれる行動をとってしまうのか、その分析が行われ、いわゆる氷山モデルという見方が定着するようになり、どうすればその事象をなくすもしくは軽減することができるかという取り組みを進めやすくなる側面があります。障害児通所支援(児童発達支援・放課後等デイサービス)、生活介護、共同生活援助(グループホーム)などで対象となった人へ支援するときに加算がついたり、移動支援とは別の外出支援として行動援護という制度ができたりしています。しかし、その一方でその罪も決して軽視できるものではないと考えます。何よりも強度行動障害とひとくくりにしてしまうことで、どうしてもその行動事象ばかりに目が行き、そうではない時の彼・彼女がどう過ごしているのか、どんな姿でいるのかに目がいかない・思いをいたさないことになりがちにならないかという懸念です。現に、昨年度からの障害福祉サービス等報酬改定で、強度行動障害児・者への支援の記録には、国がモデルとした様式に沿った(あるいは類似の)書式での記録を事業所に求めるようになっていて、そこでは支援者と当該利用者とのやり取りや関わりに偏った記録様式になっていて、他の利用者との関わりなどの多面的なとらえ方・記述書式になっていないなどの弊害を視ないわけにはいきません。あたかも強度行動障害という疾病があるかのような誤解も生みかねないような用語とも言えますし、安易に強度行動障害の子ども・人と見てしまわないように心していかないといけません。

                                                              森