身体感覚を再生する
今から40年以上前に刊行された真木悠介という社会学者が書いた『気流の鳴る音』の冒頭に、メキシコのグアテマラとの国境近くに住むラカンドン人と生活を共にしたことがあるメキシコ在住の日本人画家から聞いた話が「ラカンドンの耳」という小見出しで紹介されています。あるとき、その画家が、周囲の人と同じように川の中に首まで浸かって暑さをやり過ごしていると、突然ある青年が走り出し、周囲の人もそわそわし始めたが、画家には当初理解できない。ところが、15分ぐらいたってその画家の耳に遠く機音が聞こえ、飛行機が近づいてきた、というのです。そのセスナ機に乗った白人から、狩猟のために必要な火薬や銃弾などを手に入れる絶好の交易の機会であり、青年は信じられないほどの遠い距離から、その機音を聞きつけ、走り出したというエピソードです。
原生的な環境に暮らす人々が、超情報化文化社会にどっぷりつかっている私たちでは鈍感になってしまっている聴覚や視覚の鋭敏さを持っていることを示す一片の話ですが、考えてみれば、古代の人々は、まばゆいほどのきらめく夜空を見て、物の形に見立てた星座をいくつも見分けていたような感覚は、少なくとも今の私には備わっていません。都会で点在する明るい星だけが見える状態だからこそわかる星座も、いつか見た大海原の夜空で視たおびただしい数の星々のきらめきの中では、いくつかの星や星座と天の川を除いては、△△座とか□□座とかを見分けることなど到底できないと思ったものでした。
さまざまな媒体の液晶画面やさまざまな機器から流れてくる音の渦などにまみれて、私たちが本来持っていたであろう聴覚や視覚、嗅覚などをどれほど鈍らせてしまっているか、ということをこのようなエピソードから気づかされます。だとすれば、失われつつある聴覚、視覚、嗅覚、皮膚感覚などの身体感覚をどう再生させれることができるか(取り戻すことができるか)、ということは生物としての人間という視点に立った時、自ずと、日々の生活の中で(また活動の中で)、自然の中に身を置く機会(時間)をどれだけ持つか、また意識していくかはとても大事なことのように思えます。逆の見方に立てば、タブレットやスマホの活用、というようなことに抑制的なスタンスを取ることがもっといるのではないでしょうか。狭い画面の中だけに集中を向けることが、いかに身体感覚の豊かさから遠ざけていることになっているのではないか、ということに反省的になることが必要に思えます。
先に触れた真木悠介の本のタイトルは、気流の鳴る音、です。また、今や世界的な作家となった村上春樹のデビュー作であり、私の一番好きな村上作品でもあるタイトルは、「風の歌を聴け」です。このようなタイトルに象徴されるような感覚・感性をもっと大事にしていきたいものです。
森