語られることと語られないこと

北京オリンピックが閉幕するのを待っていたかのように、ロシアがウクライナに侵攻し、以降、日本も含めて欧米では、連日、ロシアの非道さを見せつけられる映像がテレビでは映されています。ただこうして毎日、テレビで映されていることがある反面、映されていないこと、報道されていないことも多々あるのではないかという事が気になって仕方がありません。例えば、ロシアの他国への侵略ということで言えば、シリアへの介入、チェチェン共和国への侵攻なども過去にあったにもかかわらず、少なくとも日本で今回ほど連日報道されたでしょうか?また、難民に対して極めて厳しい対応をとる日本が、今回例外的にウクライナからの避難民を日本に親せきや知人がいなくても受け入れるという対応を取っていますが、なぜウクライナだけなのでしょうか?そのウクライナに絞って見てみても、ウクライナにいる障害者・障害児は今日、どうしているのだろうかと思わざるを得ません。インターネットで検索すると、障害児施設で暮らす子どもの避難が行われたという記事を目にすることができました。でもその一方で、ゼレンスキー大統領は、成人男性はロシアと戦うため、国内にとどまるよう指令を出したといいます。であれば、重度の身体障害者、知的障害者、また精神障害者はどういう扱いを受けているのでしょうか?壊された橋を歩いて渡る避難民が映し出されると、電動車いすを使っている人は、誰かの助けを受けて避難できているのだろうか、と思いを巡らせます。

戦争が起きると、いつでも立場の弱い人が、より日々生きにくい状況に追いやられてしまいます。子ども、高齢者、障害者は戦えない者として白眼視されかねません。ゼレンスキー大統領の大統領令が、そういう状況を生み出していないか気掛かりです(もちろんこういう大統領令を出す元になったロシア首脳の行いこそが問題なのですが)。こういう中で、思い出して数年ぶりに「酔っぱらった馬の時間」というイラン・イラクの国境付近に住む両親を亡くしたクルドのきょうだいを描いた映画(DVD)を観ました。国を持たない世界最大の少数民族と言われるクルド人。障害のある兄の手術費用をねん出するため、国境越えの密輸に従事する少年。貧しく厳しい環境での生活の中で、5人のきょうだいがお互いを思いあい暮らす姿は、痛ましくも心打たれます。劇映画とは言え、実在のきょうだいの姿を基にしたというこの映画を観て、私たちが知らないこと、報道に接していないこと、テレビや新聞どころか、インターネットでも検索しえない事象、生活が数々あることを想像します。この映画は20年近く前の映画ですが、中東の状況・クルド人の置かれている状況が改善されているとは思えません。このような作品に出会ったことで思うのは、グローバリズムが席巻するこの世界で、今も、そしてこれからも語られていること(報道されていること)の一方で、語られていないこと(報道されていないこと)、つまりは知らないことがいっぱいあるし、あるだろうということです。このことをしっかり肝に銘じていたいものです。