言葉がやって来る
最近、中島岳志さんが書かれた『思いがけず利他』(ミシマ社)という本を読みました。中島さんの論述は、やはり今年出版された『「利他」とは何か』(集英社新書、伊藤亜紗さんたちとの共著)で、一定接してきてましたが、今回の著書は、目からうろこが落ちる思いに駆られました。それは、ヒンディー語では、自分の意思や力の及ばない現象については、「私は」という主格ではなく、「私に、やって来る(宿る、留まる)」というような与格を用いるという話からです。例えば、「私はうれしい」と日本語では表現するところをヒンディー語では、「私にうれしさが留まっている」という言い方をするそうです。うれしいという感情は、私がうれしくなろうと思ってうれしくなるのではなく、自分の意思とは関係なくうれしいという感情が沸き起こって来る、という捉え方です。確かにそうですね。インドを旅する筆者(中島さん)が、英語ではなくヒンディー語で話をすると、多くのインド人は「(あなたに)ヒンディー語がやって来て、留まっているのか?」と聞いてきたそうです。つまり、言葉は私が身につけたというのではなく、私のあずかり知らないところで、言葉が私にやって来た、という捉え方(感覚)です。中島さんは、さらにもっと明確に「私が言葉を所有しているのではない。言葉は私の能力ではない。私は言葉の器である。言葉は私に宿り、また次の世代に宿る。私がいなくなっても、言葉は器を変えて継承されていく。そんなふうに捉えられているのです」(同書p.65)、といっています。言葉の持つ意味合いをこのように捉え直すと、どのようにして人はしゃべるようになるのか、という命題に現代日本社会で生活している私たちの一般的な捉え方とは違う地平が見えてくるように思います。
発達に遅れがある言葉を話さない子どもに、多くの人がなんとか言葉を話してほしい、とあの手この手で試みようとします。それらの方法が全く意味がないとは思いませんが、言葉が、人と人がコミュニケーションを取っていく手段でもあることを省みたときに、人との関係の中で(いつの間にか)言葉は生まれてくるものだと捉えた方が、子ども(人)が話すようになることの成り立ちをしっくり捉えたように思えます。個人の能力と捉えるのではなく、関係性の産物で、それは”やって来る”ものだと思えば、必ずしもどれだけの言葉を話すか、ということで一喜一憂することはないのではないかと思います(もちろん話せなかった子が、話せるようになると自然とうれしくていっぱい話をするようにはなりますが)。このような観点に立った時、いかに言葉を発せられるようにするのか、と性急にならず、いかに豊かな関係性を築いていくか、ということこそを大事にしなければならないと思います。
中島さんの今回の著作は、今述べたような言葉の問題以上に、利他と利己、偶然性と必然性、受動と能動、といったことで多くの気付きをもたらしてくれるものですが、そのことはまたいずれ触れることができれば、と思います。
森