自然としての生命と論理

 福岡伸一さん・伊藤亜紗さん・藤原辰史さんによる『ポストコロナの生命哲学』(集英社新書)は、コロナウイルスと人間の関係、コロナウイルス感染症対策と基本的人権の制約、生命は本質的には利他的だと言う福岡さんの論など、示唆に満ちた本です。今回は、この本の中で、福岡さんが、「人間の社会のあり方を、安易に生物学で解釈したり、合理化するのは危険」(同書p.137)と言われていることに関連したことを書くことにします。
 というのは、この発言の前段で、ナチスの世界観の核は生物学である、とナチスは主張していたようで、それもナチスの翼賛学者・マイヤーは、化学肥料を与えすぎず、有機肥料を使ったサステナブルな農業を唱えていたらしく(藤原さんの分析)、にもかかわらず、どうして人種主義による排除に結び付くのか疑問に思うところです。優秀な種だけが生き残る、という発想なのでしょうか?優秀なアーリア人(ドイツ人のこと?)だけが自然を愛し、生命と共生した農業を営むことができる、そうでない非ゲルマン民族はシベリアに移住させるという施策に持っていったそうです。ナチスは、これにとどまらず、劣等な遺伝子が受け継がれないようにする、という優生思想で障害者に対して安楽死や断種手術を行ってました。そして、それは日本では戦後にできた優生保護法にはっきりそうした思想に基づいた条文が明記されていて、1996年まで廃止されていなかったのですから、いかに日本の人権意識の低さがこういうところにも表れているか、と思わざるを得ません。1996年というと四半世紀前のことではないか、と思われる方もいるかもしれませんが、1981年に国際障害者年があり、その後は日本でもノーマライゼーションが少なくとも福祉分野では認知される言葉・思想となっていく時期から15年も後になってやっと廃止となったのですから、人権感覚後進国と言われても弁明の余地がないと私には思えます。
 話を戻します。「種の保存が唯一無二の目的である遺伝子の掟に背き、そこから個体の生命の尊厳や自由、あるいは基本的人権が出発している」(同書p.139)という論理(ロゴス~制度や社会規範)と自然としての人間生命(個体としての人はだれしもいつかは死ぬ)のバランスの上に私たちはこの社会を生きている、ということをかみしめたいと思います。福岡さんの言うこの動的平衡の中にいるからこそこの今のかけがえのなさを愛おしく思います。

                                                    森