自分の視点とほかの人の視点
私(たち)が子どもに関わる、とりわけ障害を持った子どもに関わる仕事をしていくうえで常に心掛けている(心がけたいと思っている)のは、自分の見方や感じ方は、あくまでも今の自分の見方や感じ方に過ぎず、ほかの人が同じものを見たとしても決して同じ見方や感じ方をしているとは限らないということです。あたりまえすぎることですし、改めて意識しなくてもいいのではということに思えますが、意外と忘れがちなことだと思っています。
ちょっと極端な話かもしれませんが、例えば、きんぴらごぼうや筑前煮など私たちはゴボウを食べ物と思って食していますが、世界からすればそんな根っこみたいなものが食べ物か? と見られるそうです。逆に私たちからすればフランス料理で出てくるというカタツムリが食べ物とはにわかには思えないということだったりもします。あるものをどういう風にとらえるか(食べ物かそうでないか)というのは、こう見ると極めて文化的なものだと言えるかと思います。イナゴの佃煮を日常的に食べていたという知人が私にはいますが、人によってはイナゴを食べるなんてとんでもないということになります。
食べ物一つとっても日本国内、もっと言えば家庭一つ一つとってもその当たり前の基準は違います(両親が関西人ではなかった私の家では、すましの雑煮が普通で、ずっと大阪で育ってきたのに、私は、白みそ雑煮の存在を高校生ぐらいまで知らず、大学生になって初めて食べたぐらいです)。障害を持った子どもがたとえばリンゴを見てボールのように遊ぶものと思うか、食べるものと思うか、どちらの可能性もあります。リンゴを食べるものとして、また食べる時も芯は残すものとして認識するかどうかは、周囲を見て学習して獲得されていくものと言えます。この認識の過程は人それぞれですし、またこの認識はやはり文化的なものとも言えます。
また、私たちは交通信号を青・黄・赤と言うことに疑問を感じることはほとんどありませんが、よく考えると緑、少なくとも青緑と言うのが、私たちが色について認識しているものに当てはまるはずです。日本は古くは色の概念が青・赤・黒・白しかなかった文化的な所から交通信号ができたころに緑の信号のことを青、といってしまったからという説もあるようですが、よく考えれば不思議なことです。でも青と呼ぶことが定着し、逆に緑というとひっかかってしまうのも、定着した文化に私たちが溶け込むことができているからです。それは裏返せば、そういう文化に簡単になじめない人がいたとしても不思議ではありません。
話がずいぶん脱線しましたが、私たちが普通にこれはこうだと思っていること(これはこうだと見ていること)が必ずしも誰もがそう見ているとは限らないということを確認できたらと思います。ここまでわかりやすい例を挙げてきましたが、例えば、「赤」といったときに何をイメージするか、と聞かれたとして、ある人は「トマト」というかもしれませんし、またある人は「郵便ポスト」というかもしれません。また別の人はもしかしたら「血」というかもしれません。或いは「リンゴ」「スイカ」という人も、また「バラ」と答える人もいるかもしれません。ここで何を初めにイメージするかは、その人の志向性(心がどういう方向を向いているか)に関連しているといえると思います。
いい悪いではなく、どういう志向性があるかは人それぞれで、だからあるものを見たときにどう感じるかどう見るかは人それぞれだ、ということをしっかり踏まえたいと思います。そしてこの志向性は、不変ではなく、その人が経験することや毎日を過ごす環境で変わりゆくものであることを私たちは自分自身の経験で、また子どもたちを見てそう思います。
話を始めに戻せば、私が今目の前で見ているものを誰もが同じように見ていたり感じているとは限らないということを忘れないということが人(子ども)とかかわるうえで相互理解、そしていい関係を築いていくうえで大事なことの一つであると思っています。
森