”脳を鍛える(トレーニング)”への違和感
うちのデイ・ちゃんぷるが開所して10年が経過し、11年目も後半に入っていますが、この数年、よく送られてくるダイレクトメールなどで放課後等デイサービス事業所の支援プログラムとしての教材(本、DVDなど)の売り込みで、そのキャッチコピーとして、例えば「科学的に裏付けられた脳を鍛える教材」などの言葉が躍っています。そもそもこういうアピールをするということは、最重度の知的障害の子ども(人)を対象としてイメージしているものとは思えませんし、認知機能やいわゆる”学力”をつける・伸ばすということのみに焦点をあてたかのようなスタンスに違和感を覚えていました。なので、そのたぐいのカタログやパンフレットの中身をよく読むことすらしていませんが、その違和感というのは、百歩譲ってそのプログラムを活用するとしても、そもそも知的障害(あるいは発達障害、といってもいいですが)をもつ子どもと関わっていく人(大人)が、どんな感じでその子どもに近づいていくのか、ということには全く触れずに、こんな教材や指導法を取り入れれば子どもは伸びますよ、とだけ言っている(書いている)ことにあります。
自閉症(スペクトラム)と言われる子どもが苦手なことは、人との関わり方であり、またその時に言葉でやり取りしていくことであったりします。しかし、長くその子どもたちと関わっていると、そういう子ども(それもいわゆるカナー型と言われるような知的な障害も重い子ども)が、私たちと関わるときに視線を合わせて何かを口にしようとする、人に関わろうとする意欲(志向性)をはっきり感じるようになる時が来ます。それは、とりもなおさず人や周囲の物事に対する関心や認識の広がり・深まりと関連しあっていると思われます。とすれば、大切なことは、今ここにいる子どもが、今どんなことを感じ、世界をどう見ているのか、に大人(支援者)が思いを凝らし、関わる人が子どもの関心に入る近づき方をしないといけないと思います。これをこの福祉の世界では、ラポールと言ったりもしますが、私が言いたいのはそんなテクニック(技術論)的なことではありません。もっと人と人が出会う人間臭いものです。
こんなことをはっきり文字にすることができたのも滝川一廣さんの『「こころ」の本質とは何か』(ちくま新書)を読んでいて、自閉症の人の特徴として「関係(社会性)の発達のおくれ」があるけれど、それは正常発達と絶対差を持つ異質な精神現象が生じているのではなく、生まれてから後に獲得されていく社会的文化的な共同性ゆえに獲得に時間がかかる(おくれる)のではないか、という記述に出会ったからです。視線も合わず、人が言っていることも聞いているのか、そもそも関心を持っているのかどうか疑わしく見えていた子どもが人と応答する(決して要求行動だけでなく)変化に、幾度も出会ってきています。でもそれは、健常児であれば幼児期にスムーズに獲得されていると見えるものが、自閉症と呼ばれる子どもでは小学生であったり、もっと遅ければ高校生ぐらいになってからそのような変化を目にすることもあります。それはどうしてなのか、ということを思っていたら、正常ー異常という断絶された別物ということではなく、関係の発達が早いか遅いかの違い、という捉え方をすれば釈然とします。
滝川さんはこうも言っています。精神発達とは、①まわりの世界をより深くより広く知っていくこと(認識の発達)、②まわりの世界とより深くより広くかかわっていくこと(関係の発達)の二軸からなり、その二つは相互に関連しあっている、と。で、認識の発達におくれがあるのが知的障害であり、関係の発達におくれがあるのが自閉症と呼ばれる、と。ただこの二つは関連しあっているので、知的障害があると関係が取りずらい子ども(人)もいるし、自閉症の人の中には認識の発達にも遅滞をきたす(おくれが見られる)こともある、と論を進められています。この考え方は、私が障害を持った人と関わってきて実感していることに符合します。
こうしてみてくると、人との関わりを丁寧に持っていくことには触れずに、ただ脳を鍛えるとかトレーニングするとかを前面に主張することの危うさを見て取ることができるのではないでしょうか。関係の発達と認識の発達が、相互に関連しあっていることを踏まえた子どもとの関わり、また支援を行っていくことが大切だと思います。
森