知的障害、また自閉症という言葉について(名前でわかること・わからないこと)

先日、城東区の社会福祉法人そうそうの杜20周年記念講演会・シンポジウムに参加してきて、新たな刺激を受けました。
 講演会は、児童精神科医・関正樹さん、同じく児童青年精神科医・高岡健さん、精神科医・本谷研司さんの3人の方が、それぞれ45分ぐらいずつで、異なるテーマでのお話があり、その後、講演者がお互いに話の中で訊きたいことを掘り下げ、さらに会場からの質疑応答等で形で進みました。この講演会・シンポジウムの内容は、後日、そうそうの杜のホームページからYouTubuで見ることができるように現在、準備されているということのようです。
 それぞれのテーマ(「発達障害とゲームの世界」「相模原事件再考」「「軽度」の知的障害がある人が持つ生きづらさについて考える」)について、今までの自分の見方や捉え方を再考する(例えば、ゲームの世界をポジティブに捉え直す)機会となりましたが、中でも本谷さんのお話の中で、障害概念を「脱構築」する?、という挑戦的な言葉があり、ではどうすれば脱構築できるのか考察を進めて、本谷さんはこう言われていました。まずは、知的障害という言葉を変える、という方法。これは、過去に精神薄弱と言われたり、知恵遅れと言われたりしていた言葉が、この数十年で知的障害という言葉に変わり、それが現在定着してきていますが、言い換えでいくらかは捉え方が変わっても、根本的には知的障害がある人一人一人の理解につながらないだろう、という見解だと私は理解しました。二つ目に、名前を変えるのではなく、社会学的に意味を捉え直すという考え方。代表的なところでは、障害を個性と捉える考え方。その人に障害があるのではなく、社会に障害=差し障りがあるので、社会が障害がある人仕様に変われば障害ではなくなる、というところに結び付くというのが究極の姿(理想)という考え方かと思います。しかし本谷さんは、その見方も退けて、結局は、個別性、つまり目の前の一人一人との関係性を作っていく中で見えてくるものではないか、というように言われた、と私は理解しました。
 この話で、言葉の言い換えや個性という捉え方では、現実変わらない偏見や対応のされ方は現在もあって、結局、概念で捉えようとするからかえって偏見や誤解を生むのだという実感にたどり着くことができます。つまり、一口に知的障害がある、自閉症だ、注意欠如多動症と知ったところで、一人一人の性格や志向性などはみんな違っているので、名付けられた言葉だけでは、理解しきれない・わからないのだ、ということに思い至ります。私たちは、正体不明なものには警戒心や不安を持ってしまいますが、その人(あるいは事柄)に名前がつくことで安心する、腑に落ちるということがままあるかと思います。ですが、実際には名付けられたことだけでは、理解の一助になってもすべてをわかることにはおよそ結びつかない、ということをしっかりわきまえておくこと、だからこそ目の前の一人一人との地道な付き合いこそが大切なのだと思います。それは、いみじくも高岡さんが、この日のお話の中で引用された小澤勲さん(精神科医)が講演(1984年、高槻市で)の中で語られた「精神科医というのは、精神遅滞の子どもたちと一所懸命付き合わなうそだと思うんです。」(小澤勲『自閉症論再考』)という言葉と符合しました。
 私たちが、知的障害と言われる人(子ども)、自閉症と言われる人(子ども)、発達障害と言われる人(子ども)との関わりの基本姿勢で決して忘れてはいけないことを教えてもらったように思います。

                                                                     森