生きることの意味、の考察
前回のブログとは色合いが変わって、少し暗いトーンの話になってしまいますが、やはり人と関わる仕事をしていくうえで、押さえておきたいことを綴ります。 ヴィクトール・E・フランクルという心理学者が、自身がユダヤ人強制収容所で体験した日々を丹念に綴った『夜と霧』という本から示唆を受けた話です。この話は、何年か前にうちの内部研修でも話したことですが、この強制収容所から奇跡的に生還した心理学者の本は、生きることについて深い洞察力をもって書かれた貴重な考察がいくつも見られます。
例えば、1944年のクリスマスと1945年の新年の間の週に、かつてないほどの死者が収容所で出たことを、収容所の医長は折に触れて、多くの被収容者がクリスマスには家に帰れる(注:恩赦があるということか、と解します)という、ありきたりな素朴な希望にすがっていた、けれどクリスマスが近づいても収容所の新聞はいっこうに元気の出る記事を載せないので落胆と失望にうちひしがれ、劣悪な環境の中で抵抗力を失くし病死した(発疹チフスなど)、と言ったということが書いていたりします。
また別の箇所では、
強制収容所の人間を精神的にしっかりさせるためには、未来の目的をみつめ
させること、つまり、人生が自分を待っている、だれかが自分を待っていると
つねに思い出させることが重要だった。(池田香代子訳版 p.155)
と書いてあったり、さらに別の箇所では、生きる意味について、
わたしたちが生きることからなにかを期待するかではなく、むしろひたすら
生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ。(同
p.129)
とも書いていて、自分を必要としている人がいてくれること、自分がここで果たす
役割や責務があることに気づくことが大切だと言っています。
これらから言えることは、何回か前のブログに書いた内山節さんの本を引用して述べた、自分の存在が誰かにとって必要とされること、でありたいということと同じことがらです。
ちなみに、フランクルは自身が強制収容所から奇跡的に生還できたのは、収容所にいたときから、自分は生きて収容所から出て、その体験を心理学者として書く使命があるという強靭な意思を持つことができたから、というように語っています。
どの子どもたちもそのように誰かにとって必要であり、あるいは担う役割があるというかたちができるようにありたいと思います。そして、私たちの仕事がその子どものありように少しでも寄与できるようでありたいと思っています。
森