物語の魅力と魔力
小劇場時代から注目していて、好きな役者の一人である堺雅人が演じた徳川家定が観たくて、もう10年近く前の大河ドラマ「篤姫」の家定が出ていた数回だけをレンタルビデオで立て続けに最近、観ました。病弱で、あるいは脳性麻痺もあったのではないか、という説もある家定ですが、病弱であるがゆえに施政は老中たちに任せていた、というのが定説のようです。ですが、「篤姫」では、その定説に沿いながらも、実は思慮深く、わざと道化を演じていた、という風に描かれています。安政の大獄を行った井伊直弼についても、単に悪役で描くのではなく、一定の見識を持った人物という描かれ方がされています。その一方で、徳川慶喜については、覚悟をもっていない信の置けない人物として描かれています。
ところが、同じ大河ドラマでも、昨年放映された「西郷どん」では、慶喜は、時代の転換機に立たされて、徳川家と日本を守ることに心を砕いた苦悩する人物として描かれているようにも見え、「篤姫」での描かれ方とは、だいぶ趣を異にしています。どちらが、ほんまの慶喜か、という論の立て方をするのは、あまり妥当なことではないかと思います。というのも、どちらも歴史小説を原作としたドラマ、つまり物語だからです。現実の慶喜は、おそらくどちら(「篤姫」「西郷どん」)の側面も持った人物だったのではないか、というのが私の推測です。
話は、さらに家定からそれていきますが、「西郷どん」で描かれた西郷隆盛や大久保利通の描かれ方も、かなり関心をそそられました。というのも、私は西郷が流刑にあった奄美大島には、何度も旅しており、薩摩と奄美の関係や琉球と薩摩、琉球と奄美の関係にも、かなり関心を持ってきているからです。薩摩が、幕末にあれだけ活躍し、のちの明治政府の主翼の一部を担うことができたのも、奄美から黒糖を収めさせ、高価であった砂糖を元手に、大量の大砲などの近代兵器・武器を手にしていたという側面(奄美からすれば薩摩に搾取されてきたという側面)があるだろうと思うからです。
是枝裕和監督の「奇跡」という映画では、鹿児島の小学校が画面に出てきますが、その鹿児島の教室では、教室の前の黒板の上には西郷隆盛の肖像画が飾られていて、実際の小学校がそうなのかどうかはわかりませんが、おそらく鹿児島の多くの人にとって西郷隆盛は、郷里の英雄という存在なのでしょう。ですが「西郷どん」でも語られるように、奄美の人たちの西郷隆盛に対する意識には複雑なものがあるだろうということは想像に難くありません。
では、大久保利通はどうでしょうか? 多分、鹿児島では西郷を裏切った人物として見られているでしょう。また、琉球からすれば、明治に入って琉球併合を進め、琉球王朝をつぶした人物とも見られているでしょう。一方で、明治政府が行った近代化政策を推進した中心人物という歴史家(日本史)の評価もあるでしょう。
私は、あまり政治史(日本史・世界史とも)に対する関心は高くありませんが、歴史とは、どの立場でどのような観点からみるかで、歴史的事件と言われるものの見方や評価はいかようにも変わるものだと思います。
問題は、このような物語性を含む歴史と言われることに魅かれる人々がいて、また物語に魅力を感じたりもするということです(かくいう私も堺雅人演じる家定には惹かれました)。ですが、物語はあくまで一側面を描いたものにすぎないということを忘れると、物事の多様な取り方・見方が損なわれる危険があると私には思えます。物語の持つ魅力とともに、魔力ということにも思いを致さざるを得ません。
森