本人の思いと支援者の思いとのズレ
前回のこのブログでは、最後に本人の思いと支援のズレが生じることがあるということを書きました。本人の思いを大事に、本人中心で、という論じ方は一見、100%疑う余地のない正当なことのように思いますが、ひねくれたことを言えば、では電車に乗って遠くを旅することが好きだからといって、無賃乗車でどこまでも好きなときに行っていい、とは言えるでしょうか。それが構わない、あるいは仕方がないということになれば、運賃という決め事が成り立たなくなります。であれば、仮に電車が好きな知的障害の人が、自己決定だからと言って認めるかというとそんなことにはならないでしょう。
無賃乗車だと話は分かりやすいですが、でも日常生活では、本人の思いや希望と周囲の人(家族、支援者など)の思い・願いがズレることはままあります。例えば、味の濃いのが好きだと言って高血圧症になっている人に、それでも好みのままにしょうゆやソースをじゃぶじゃぶかけるのを黙認するでしょうか? いや、そもそもまだ発病しているわけでもない場合でしたらどうでしょう? どこまで本人の思い通りを尊重するかあるいはしないかは、こう見てくると微妙です。
そもそも、周囲では、何らかのサポート、支援が必要と思っても、当の本人は支援、サポートは要らないということにもしばしば出くわします。
何が正解かは、私にはわかりませんが、一つ言えるのは、支援とは本人の思いや希望を大事にしつつも、それは社会的な規範(ルールごと)に照らして許されるものだろうか、また本人の心身にとって不利益にならないだろうか、と時に悩みながら、本人とやり取りしつつ歩むことだろうと思います。
社会的な規範(ルール)は、文字通り社会的なものですから、先日あるTV番組を見ていたら、スウェーデンかフィンランドかでは、自分の土地に生えている自然の物であれば、だれがとっても良い、というようなことが放送されていました。これがもしその通りであれば、現在の日本社会のルールとはずいぶん違う規範(ルール)です。
何もかも本人の思いに沿って行動する、でもなく、かといって現在の日本社会のルールを何の疑いもなくただ障害を持った人に強いるのでもない、本人の思いと社会的な規範とのせめぎあい、また本人の思いと支援者の思いとのズレを自覚したうえで、本人にとってより良い生活・より良い生とはどどうなのか、悩みながら歩んでいくことが大切なのだろうと思っているところです。
森