望ましい生活(生活の質)は?

 前回、精神科医・本谷さんの言葉を紹介しましたが、本谷さんが、「自分に誇りをもてるためには?」という問いを立て、それについて、いくつか箇条書きで挙げられたことを記しました。今回は、その中身についてもう少し詳しく考えていきたいと思います。
 まず、生活が保障されている、ということは当たり前のことですが、安心して「食べて寝ること」ができることが、これまで出会ったきた子どもたちやその家族を省みると必ずしも現在の日本社会でも保障されている、とはいいがたい状況があると思います。保障されていないのには、個々の状況があって、例えば経済状況がひっ迫していて、福祉制度で生活保護を受けることができたとしてもそれでもって充分に安心した生活が送れるようになった、とは言いきれない場合もあります。
 「大きな苦痛がない」とか「周りの人とそれなりにいい関係が持てている」と限定がつくところは、全く小さな苦痛すらないとは日常を営んでいくうえではなかなかないことで、病気をすることもあるでしょうし、けがをすることもあるでしょう。また嫌な人が全くおらず、みんな自分に好意的で対人関係で全く問題を生じることがないということもよほど幸運な人でないとなかなかそこまでは望めず、うまくいかないことも時にはあるでしょう。それでも、「大きなトラブルがない」「孤立していない」状態であることは望みたいことです。
 「可能なかぎり自己決定が保障されている」と限定がつくのも自己決定が社会的なルールに著しく反する、倫理的に認められないこともありうるでしょうから(もちろんそのことは障害者に限ったことではありません)、そういう意味合いがあってのことと解釈できるのではないでしょうか。また今置かれている状況の中で自己決定が保障されにくいときや事柄もあるかもしれません。
 そして生活の質という視点に立った時に見逃してはならないことは、「生活の中に楽しみがある」「一定以上のゆとりがある(毎日がいっぱいいっぱいではない)」ということです。特にゆとりがある、ということは、ともすれば置き去りにされかねないことだと思っています。マスコミ報道などでは、ゆとり世代といって、ゆとりということ自体揶揄する向きもあり、マイナス価値に見られかねませんし、支援者という私たちの立ち位置では、何かしないといけない(教えてあげる、身に着けさせる、指導する)ことが自明であるかのように錯覚する人もいるのではないかと推察します。だからこそ、ゆとりがある、という視点は自戒しないといけないことだと思っています。
 というようなことを省みると、本谷研司さんが、研修で私たちに示してくださったこれらの項目も意識しながら支援計画を立て、支援に携わっていくことが大切だと思っています。

                               森