暗黙のルール(決まり事)

 先日、ラジオを聴いていて、リスナーの中で兵庫県の公立小学校で育った子どもは、体操を始める時に「やあ」という掛け声をみんなで言う習慣があるということが紹介されていて、また中には兵庫県から別の県に引っ越したら、体操の時にそんな掛け声がなくて、自分だけそれまでしていたように「やあ」と言って、恥ずかしい思いがした、という話も紹介されていました。
 ある集団(それが学校であれ、保育所・幼稚園や、私たちのようなデイであれ)に、入っていくということは、その集団では長年、当たり前のようにしている決まりごとを知り、理解し、それに合わせていくことが求められるということになってきます。たとえ一人暮らしをしている人であっても、この社会で有形無形にルール(決まり事)として、ほとんどの人が受容し、守っていることがらを知り、理解し、それに合わせていくという事をしないと、法に触れる場合はもちろん罰則を受けることにもなりかねませんし、また法でなくても習慣や常識として定着していることに合わせることができないと、この社会で生きづらくなります。
 で、その社会の有形無形のルールを学び習得していくことが、例えばソーシャルスキルトレーニングと呼ばれたりしていることだったりしますが、その手法を当然のように行うことは、その有形無形の社会のルール(決まり事)をともすれば絶対守って当然のこととしてしまっていないか、という危惧を私は持ちます。悪法も法、ということで、法は守らないといけないいうことは社会人としては当然ですが、無形の習慣や常識や決まり事となっている事柄は、誰もが当然、それに沿って行動しなければならないことかどうか考え直してみることも時には必要であると思います。
 先に述べた、体操の時になぜ「やあ」と言うことになっているのか、なぜそうしなければならないのか、あるところでは当然のルールになっていることが、他ではそうはなっていないということからすると、実はその当然のルール自体が誰もが絶対守らないといけないことなのかあやふやなことだと捉えることもできます。そう考えると、知的に障害がある人、発達に障害がある人にとっては、集団ごとで自明とされている決まり事を理解したり、その意味を理解することは難しかったとしても不思議ではないですし、その気まりごとが誰にとっても守らないといけないことだったり、妥当なことなのか検証が必要だと思います。で、場合によっては、今まで習慣としていたルールや決まりごとの見直しを行うことが大切だと思います。

                                  森