時間を理解することの難しさ

 子どもの日常生活で、よく保護者や学校の先生、また支援者同士で話題になることの一つに、場面切り替えが難しいとか、時間を言ってもその時間が守れないとか、といったことがあります。
 そもそも人間にとって、時間とはどういう風に理解されているでしょうか?子どもにとって、公園などで遊んでいて、夕方暗くなってきたら、そろそろ家に帰ろうかという気分になる場合もあるでしょう。遊びに夢中になっていたら、仮に公園に時計があったり、自分で時計を持っていたとしても、時間を見ることに思い至らず、暗くなってきて初めて、帰らなくちゃ、と思うこともよくあることだと思われます。まして、知的に障害がある子どもにとって、時計の時間を理解することはなかなかに難しいものがあるように感じられます。60分が1時間とか、一日が24時間とか、私たちはいつの間にか当たり前のようにそのことを認識し、その時間に沿って日々を送っています。ですが、近世までの日本にとって、子の刻(ねのとき)とか十二支で一日を表現していたので、一日はまず12に分かれて理解されていたことになります。とすれば、現在の時間の刻み方が決して絶対的なものではないことがすぐにわかります。
 例えば、先の夕方の時間の把握にしても、冬と夏とでは暗くなる時間が2時間以上変わってくるので、時間をどういう風に感じるかは、個々によってずいぶんと違うのはむしろ当然のようにも思えます。
 このようなことから、障害を持った子どもに関わっている者にとっては、いつもどう時間を伝えるか、どう理解して納得して次の行動に移すことができるのかに頭を悩ましていることにつながってもいきます。
 では、それがなぜ難しいかというと、つまりは時間とは目に見えないから、ということを端的に本川達雄さんという生物学者が『生きものとは何か』(ちくまプリアー新書)という本に書いていました。空間に関することなら、多くは目に見える形で伝えることもできますし、理解することも時間に比べればそこまで難しくないように思えます。ところが時間とは、目に見えるものでもなく、耳に聞こえるものでも、皮膚に感じることもできないものです。
 知的障害・発達障害の子どもにとって、目に見えないこと、五感で感じられないこと、抽象的なことの把握・理解が難しいとよく言われますが、言わば時間というのはその最たるものと言えるかもしれません。
 本川さんは、アリストテレスを引用して、「時間が経ったことが分かるのは、何事かの変化が生じたからである。」「時間とは前後に関しての変化の数だとする。」と言っています。ということは逆に言えば、変化がなければ時間は意識されない、ということになります。何かに熱中していてずっと同じことをしていれば時間が意識されない、でも計測される時間としてはずいぶん経っていたという事なのかもしれません。もちろん本人がどうしているかに関わらず、日が落ちていって夕方から夜になって、環境は変わっていっています。暗くなれば眠くなって、という生理的な変化もおこって、ここに時間が生じているということもできるでしょう。
 ずいぶん哲学的な話になりましたが、では目に見えない、だからわかりにくい(把握されにくい、認識しにくい)時間をどうすれば理解しやすくなるのか、ということを次に考えたいと思います。

                                 森