時間はどうすれば理解できるか?

 前回、時間は目に見えないし、その社会で(或いは今や世界的に、といってもあながち間違っていないのかもしれませんが)人為的に決めたものなので、発達過程にある子どもにとって、とりわけ知的に障害がある子どもにとっては、理解することがなかなか難しいのではないか、ということを書きました。
 「今や世界的に」と書きましたが、自分たちの文化圏だけでなく世界のことをいくらかでも知ることができる社会では、西暦が世界的に共通なものとして通用するでしょう(このインターネットのように)。ですが、改元騒ぎに沸くこの数か月の日本社会は、世界的には、もしかしたら奇異に思われるかもしれません。中国に始まったという元号も発祥の国である中国はおろか、かつては使っていたというベトナムなども元号は今はなく、世界で日本だけの決め事(数え方)になっているといいます。そういえば、前にこのブログで触れたイラン映画の中では、イランの暦やイスラム暦というのが出て来て、西暦とは違う年数でした(因みにイスラム暦は、純太陰暦なので1年の日数が太陽暦と異なってくるようです)。しかもこのイスラム暦では、日没が一日の始まりということですから、現代日本の私たちの感覚とは、かなり違う時間の意識のされ方もあるということができるでしょう。
 こんなことを長々と書いたのも、今の時間の数え方が、極めて人為的で文化的なものであることを確認したかったからです。そして文化的であるということは、その文化になじみのない者にとっては、その文化になじむようにならないと、その社会では生きにくいということでもあります。学校が、どうして、45~50分の時間の刻み方をするのか、大学生ならなぜ90分という単位なのか? 前回取り上げた本川達雄さんによれば、集中できる時間と代謝率が反比例するということに着目して、そのことを説明されていますが、時間が経つという感覚はその時々でずいぶん違うことを私たちも経験的に知っています。それは、つまり人間の外部から計測された時間と生きられた時間には違いがあるということができるかと思います。
 この計測された時間(○時○○分、というような)を理解するのは、結局は周囲の人との関わりや周囲の人の動きを見て、というところから始まるのだと思います。そこを飛び越えて、あるいはそこを重視せずに、ただ時計の見方(それがアナログであろうとデジタルであろうと)だけを教えようとしても、あまりうまくいかないのではないかと私は感じています。もちろんただ言葉で言うだけでなく、計測された時間をできる限り視覚的に伝えるなどの工夫は一定の効果があるとは言えるかと思います。ですが、時間を理解できるようになる特別な何か(手段、方法)があるわけではないという風に思います。家族や身近な大人や他児がしている(動いている)姿を見て習得していくものだと思います。そんなことを念頭に置いて、子どもに時間というものが意識され、伝わっていければ、と思います。

                             森