映されること・語られることとそうではないこと
パリオリンピックが終わって、間もなくパラリンピックが始まります。ですが、私は20代ごろから、ほとんどオリンピックを見なくなりました。今回もマラソンを見たぐらいで、ほかには7人制ラグビーは見たかったのですが、地上波では中継はおろか結果さえもダイジェスト映像すらなく、辛うじて、新聞やネット記事で男子は全敗、女子は9位だったことを知りました。これももし、入賞やメダルを取るようになるとにわかに映されるようになるんだろうな、と思いながらため息をつくばかりでした。というのも、テレビでもネットでも、日本選手がメダルを取ったり、あるいは期待される競技ばかり、それも日本選手や日本チームばかり映されることに、ほとほと嫌気がさしているからにほかなりません。メダルをいくつ取ったとか、そんなことはどうでもいいことで、勝者もいれば敗者もいて、それは日本選手ではない敗者の姿も美しいもので、なぜ取り上げられること・映し出されることが、こんな偏りを見せるのかということにうんざりしていて、そんなこんなでオリンピックはほとんど見ないし、オリンピックに関する報道もほとんど関心を持てませんでした。ただ、7人制ラグビーでリオオリンピックの時に選手で出場した桑井亜乃さんが、今回レフリーで出場した、とか、メダルには関係ないいくつかの話には興味を持ちました。また、ブレイキンはもともと勝ち負けを競うものではなくて、今回金メダルを取ったAMI選手もメダルがどうのこうのというのにさほど関心を持ってなかった、と言います。競技が終わった後の、ブレイキンやスケートボードの選手間のねぎらいやほめたたえ合う姿は、見ていてすがすがしく感じました。こういう映し方であれば、もう少し私もオリンピックに関心が持てるのになあ、と思ってしまいます。
振り返って、テレビもそうですが、ネットでも取り上げられることとそうでないこと、取り上げられることもその取り上げ方、どの角度から取り上げるのか、見るのか、ということにもっともっと意識化しないといけないといけないように思います。先に、私はオリンピック報道が偏っている、と言いましたが、これも何をもって、あるいはどういう基準で偏っているというのか思うのかは、人それぞれかもしれません。むしろ私のような見方・思い方の方が珍しいのかもしれません。ですが、何をどのように注目するか、ということ(どういう物差しを持って見ているのか)を相対化する・自覚的になる、という姿勢はとても大事なことのように思います。
森