支援という関係性を考える

 このブログで何回か触れてきた美学者・伊藤亜紗さんが、中島岳志さんたちとの共著『「利他」とは何か』(集英社新書)という本を最近読みました。その中の論述には、能動態でも受動態でもなく、中動態という概念を提示してくれていたり、新たな発見もあるそれぞれに刺激的な論考に接しますが、中でも伊藤亜紗さんの「「うつわ」的利他」は、私たち支援者という者の立ち位置や利用者と呼ばれる障害児・者との関係性を捉え直す意味でも多くのことを考える・振り返ることに誘ってくれます。
 例えば、私は支援計画を書く時に、「安心して」とか「安心できるような」という言葉をちょくちょく使ったりもしますが、伊藤さんは、安心と信頼は違うということで考察を進めています。支援者が、障害者や高齢者に対して、本人が求めてもいないのに必要以上に口出しや手伝いをしてしまうありようについて、「ここに圧倒的に欠けているのは、他者に対する信頼です。目が見えなかったり、認知症があったりと、自分と違う世界を生きている人に対して、その力を信じ、任せること。やさしさからつい先回りしてしまうのは、その人を信じていないことの裏返しだとも言えます。」(同書P.48)と言います。さらに伊藤さんは、山岸俊男さんの『安心社会から信頼社会へ』という著作から引用して、「安心は、相手が想定外の行動をとる可能性を意識していない状態です。要するに、相手の行動が自分のコントロール下に置かれていると感じている。/それに対して、信頼とは、相手が想定外の行動をとるかもしれないこと、それによって自分が不利益を被るかもしれないことを前提としています。…(中略)…にもかかわらず、それでもなお、相手はひどい行動をとらないだろうと信じること。これが信頼です。」(P.49~50)と言います。確かにそうです。しかし、支援という立ち位置、ましてそのことで対価を得ている(報酬を得ている)者からすれば、相手が想定外の行動をとって、場合によっては怪我をしてしまったりということがあってはならない確実性が、法令的にも契約という性格上も求められます。よく言われるリスクマネージメントがそれでしょう。かくして、得てして安心という言葉をしばしば使ってしまっています。しかし、本来望まれるべきことは、安心ではなく信頼という関係ではないかということを考えさせられます。
 人間、本来はだれしも誰かのために役に立ちたい、何か働きかけることで喜んでもらいたい、ましてそのことで感謝されたらもっとうれしくなります。ですが、伊藤さんは、そういう「利他的な行動には、本質的に、「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」という、「私の思い」が含まれています。/重要なのは、それが「私の思い」でしかないことです。/思いは思い込みです。…(中略)…「これをしてあげたら相手にとって利になるだろう」が「これをしてあげるんだから相手は喜ぶはずだ」に変わり、さらには「相手は喜ぶべきだ」になるとき、利他の心は、容易に相手を支配することにつながってしまいます。」(同P.50~51)と論を進めます。これは、福祉という分野で支援を仕事として携わっていると、もっとその危険性は大きくなると私には感じられます。まして、私の職種は、相談支援専門員という名前で呼ばれ、専門性を売りにしているからなおのこと始末に負えません。自分のしていることは専門的な見地で正しいことを言っているのだ、してあげているのだといううぬぼれ、自己陶酔に容易に陥りかねません。これは、経験を重ね、一定感謝の言葉に接したりするようになればなるほど、この罠にはまることに気をつけなければならないと自戒しなければなりません。
 そんなこんなで、今の支援の枠組みも自分たちの仕事のありようも、もっと相対化する視点や姿勢を大事にしなければならないと改めて思う論考に出会いました。

                                                      森