支援するー支援される、という関係

 何回か前のこのブログで、私たちの事業のことを「サービス」と言うことへの違和感を述べました。では、「支援」ということについてはどうでしょうか? 私たちが子どもに関わっていることは単に一緒に遊ぶ、ということだけではないはずです。子どもが、人と関わりにくかったり、コミュニケーションがとりずらかったり、あるいは身辺的なことが一人ではできないないしは不十分という場合もたくさんあります。いや、だからこそ、子どもが大人のいない環境で一人で、或いは子ども同士だけで遊ぶ環境ではなく、デイという環境が用意されたり、ヘルパーと呼ばれる人が一緒にいたりするわけです。そういう意味合いでは、私たちが子どもと関わるスタンスは、やはり支援ということになるかと思います(さしあたりそう規定します)。

 ところが、もうずいぶん前のことですが、ある聴覚障害者が健常者との関わりにおいて、自分たちが必要としているのは支援してもらう(支援者―非支援者という関係)ということではない、ということを明確に言っていました(正確には文章で書いていたと思います)。その言葉に出会った頃は、本職の傍らときどき手話通訳をしていたのですが、障害者と健常者との関係を考える上で強烈なメッセージをもらったと思いました。
 話はさらにさかのぼり、私の大学生の頃の話になります。高校生までかなりのほほんと育ってきた私は、大学に入って初めて障害者と日常的に接するようになります。同級生に聴覚障害者がいて、その彼には手話通訳やノートテイクがなければ授業の内容を把握することもできません。大学入学とともに手話学習会に入った私も拙いながらも入学して半年ぐらいたったころからは通訳っぽいことをしていたと思います(当時は、大学からは体制としては何の情報保障もなかったので、学生が自主的にそのようなことをしていたわけです)。もちろんこれは自主的かつ自分も一緒に授業を受けていたので、通訳料などというお金が介在する関係ではありません。でもそのことで憤ることもなかったし、カッコつけた言い方になってしまいますが、同級生として学習する環境のお手伝いをしているというぐらいの感覚でした。
 この大学の授業では、聞こえる人たちが大多数で、音声言語でコミュニケーションを取るので手話通訳が必要なわけですが、逆にろうあ者が多数の場であれば、そこでのコミュニケーション手段は手話が中心で、手話を知らない健聴者がいたら、その人に対して音声通訳(手話の読み取り通訳)が必要になります。こうなると、どちらが支援者でどちらが支援を受ける者かわからなくなります。現に私は大学を卒業して何年かたったころ、ろうあ者カップルの結婚パーティーに参加して、200人ぐらいの参加者の中で聞える者が自分も含め10人ぐらいしかいなくて、会場で話される手話の世界に圧倒されたことがあります。もっと言えば、私が情報障害者になったようなぐらいの気分でした。
 つまりこの世界は、健常者仕様にできていて、健常者が便利で困らないということが優先されて成り立っているということがいえるかと思います。だから障害者にとって支援が必要とされるということなのだと思います。知り合いの聴覚障害者が主張した自分たちは支援される人ではなく、健常者との対等な関係で、困ることがあったら助け合う(この場合、コミュニケーションの仲介~それは手話通訳であったり、読み取り通訳であったり)ということが必要なだけだ、というのはその通りだと思います。

 私たちが普段関わる子どもたちは、そもそも大人ではなく、育ちゆく者、大人からの適切な働きかけが必要で、時には大人が子どもを守る、ということも必要でしょう。ましてその子どもが障害を負っていると(大人が、あるいは職員が)支援するー(子どもが)支援される、ということは自明のことのように思われがちです。まして私たちは、仕事として子どもと関わっているのですから、子どもが足りない・至らないところを支援、あるいは時には指導するという関係の側面があることは否定できません。ですが、それを自明として自分がより完成された者(位置にいる)とばかりしていて、そのことに疑いを持たないことがいいとは私には思えません。
 今はもう手に入らない本かもしれませんが、数十年前に田村一二さんという人が書いた『茗荷村見聞記』という架空ルポでは、知的障害者が警察官だったり、さまざま公職についているという話でした。健常者仕様の世界に対するユーモア溢れるアンチテーゼがここに見られます。私は、この本に見られるような感覚は大事にしていきたいと思います。
 ですので、日常的に支援という言葉を使いながらも、その言葉に依存してはいけないと自戒しているところです。

                               森