感覚(知覚)はさまざま
土曜日の夜遅くに放送されている「モコミ」というドラマは、おそらく発達障害があると言われる人とその家族の心情や家族関係を、わかりやすい形で描いています。もっとも、そっくりそのままで家族像を見てしまうのは、かえって誤解を招く可能性も否定はできないように思いますが、それでもこのドラマは、いくつかの示唆を含んでいるように思います。主人公のモコミは、物の気持ちがわかる(ガラス窓が泣いている、とか、花が誰それのところに行きたがっている、とか)、しかしそのことを周囲の人に言うと、変人扱いされかねないということで、本人自身も他人に心のうちを語ることなく、親しい友達ができなかったというところにいます。そして、モコミを守ろうという意識が強いゆえに、過干渉・過保護に陥っていることに長らく気付いてこれなかった母。家族みんなが、モコミのことばかり心配して、ほっといても大丈夫なやさしいお兄ちゃんと見られていた兄の屈折した思い。それらが、わかりやすく描かれています(現実は、こんな極端なことはあまりないことかとは思いますが)。
このドラマで面白いのは、家族の中では、祖父だけ、そして家族ではないモコミが働く(働いていた)工場や花屋の同僚や先輩は、決して彼女を変人扱いして奇異な目で見て距離を取ろうとするようなことはなく、むしろ彼女の「特異な」才能に感心して、あるいは率直に評価して、モコミの力を信じていることです。
私たちは、ともすれば、自分の持っている知覚(物事をとらえる感覚)が、誰もが同じように備わっていて(或いは欠如している)、というように思い違いをしているのだろうということを、このドラマは教えてくれているようにも思えます。例えば、視力の基準一つとっても、もっと別の基準を持つことができれば、もっと一人一人の見え方には差異があることがわかるかもしれません。嗅覚や味覚などは、普段その差異や度合いがあまり意識されることがありません(例えば、一般的な健康診断や障害支援区分認定調査の項目に、視力や聴力はあっても、味覚や嗅覚の項目はありません)。ですが、「モコミ」の場合はフィクションとして、その現実性を否定することもできますが、自閉スペクトラム症(以下、ASDと書きます)の当事者が言っている感覚などについては、私たちは、もっと注目する必要があるように思えてきます。
熊谷晋一郎さんが書いた『当事者研究』(2020年、岩波書店)という本の中には。定型発達と言われる人たちが、全体を見渡して感じることで済むことを細部が気になってしまうASDの人の話が紹介されています。
例えば、周囲の人たちが「春の雑草で一面の紫色ね」と全体を捉える景色において「いろんな花が咲いているけれど、それぞれ何という名前なのだろう」と部分に目がいくのである。 (p.142)
また、よくASDの人の特徴で引き合いに出されるフラッシュバックについても、
旅行や散歩などで新しい環境を体験した日、たくさんの人や初対面の人に会った日、突然の出来事に見舞われた日、あれこれと
忙しかった日。そんな一日の途中で疲れのあまり「ふうっ}と気を抜いた瞬間や、一日を終えた夜、眠りにつこうとする際、その
日にインプットされたおびただしい数の視覚記憶が、スナップショットのように次々とランダムに再生されはじめる。たとえるな
ら、「大量に撮りためた写真を時間軸も項目もめちゃくちゃに紙封筒に詰め込んでいたところ、紙封筒が破けて底が抜けてしまい、写真がバラバラととめどなくあふれ出て脳裏に降り注ぐ」といった感じである。 (p.149)
というように、ASD当事者の綾屋紗月の言葉が紹介されています。そして、付け加えて大事なことは、綾屋さんは、この感覚は自身の感覚であって、ASDの人がみんなが同じような感覚を持っているのではない(同じような知覚をするわけではない)ということを断っています。とすると、知的障害もあって言葉で表現しにくく、かつASDである人の個々の思いをどう酌みとっていくのか、想像力を存分に働かせないといけないように思います。とはいえ、言葉で表現できる綾屋さんのような当事者一人一人が語る事柄に、まずはしっかり耳を傾ける必要があるように思います。
森