当たり前とされている考え方・見方を相対化する

 明後日、沖縄から児童精神科医の滝川一廣さんをお迎えし、精神発達や発達障害に関わるお話を東住吉区地域自立支援協議会主催で行うこととしていますが(12月19日 10時~ 東住吉区民ホール)、その滝川さんは、「虐待」と頻繁に使われている言葉、その言葉が意味する人間の関係性についても、一言(いちげん)を持っておられます。保護者と子どもの関係性を見る時に、不測のことがあってはならないので(また実際、そのような事象がメディアによって取り上げられもしていますし、そのようなことがあってはならないですが)虐待という見方・観点を持って、見てみる(観察する・点検する)ことも意識しないといけないかもしれません。しかし、一旦そういう目で関係性を見るということにシフトしてしまうと、保護者に対して、審判者のような立ち位置に容易に自らが陥ってしまう危険をはらむことにも注意しなければならないように私には思えます。
 問われるべきは、支援者である自らの立ち位置や物事や関係性を見る時の見方、捉え方、考え方です。もちろん、これは明らかな虐待であることに目をつぶっていいとか言っているのではありません。ですが、絶えずそのことを念頭に置きながら保護者と対した時に、審判者のように立ってしまうよりも先に支援者としてどう支援していけるのか(寄り添っていけるのか)という視点・姿勢から外れてしまうことになりかねません。これは、滝川さんもよく語られていると思いますが、子育てを社会で行うというのではなく、家庭内で保護者が全面的に背負うものという現代的な価値観・倫理観の中で、保護者を心身ともに孤独に追いやってしまっていないか、という反省にも繋がっていくことが実は必要な考え方ではないでしょうか?
 障害者虐待防止法、児童虐待防止法という法律があり、児童虐待や障害者虐待と見られること、ないしは疑われることがあれば、行政等に通報する義務が私たちにはあります。そのことで、救える命もきっとあるのだと思います。またそのような事象に出会う確率は私たち支援者は多いかもしれません。しかし、虐待がないかどうかという色眼鏡でしか保護者と関わるないしは対するとしたら、それは関係性としてとても貧しいとも言えないでしょうか?
 点検されるべきは、今日(こんにち)定説となっている物事の見方や捉え方です。今の考え方・見方の相対化という作業こそが、私たちに必要なことと思えます。

                               森