少数派であることの生きにくさ
先日、東住吉区子ども部会で、精神科医・本谷研司さんに「知的障害・発達障害がある人に向精神薬を使うとき」というテーマでお話をいただく学習会を行いました。そもそも「病気」でもないのに、なぜ薬を使うのか、という素朴な疑問符から考察して、向精神薬を使う功罪を詳しくお話してくださり、そのうえで「症状」「状態」を治すというのではなく、軽減するために使うことも有用なときもあるとまとめることもできるお話だったかと思います。ただ、お話の重点は、薬のことそのものより、向精神薬という切り口で、知的障害・発達障害がある人・子どもにとって、より生きやすく、暮らせるようになるにはどうしていくか、どう考えていくかということだったと思います。
中でも、知的障害や発達障害がある人・子どもを支援しようとしたときに、まず頭に置いておくべきこととして、そもそも(古今東西を問わず)世の中は、多数派を基準にして作られているゆえに、少数派にとってはそれだけで生きにくさにつながりやすいというお話でした。例えば、左利きの人にとって、さまざまな道具や設備が使いにくいということだったり、あるいは車いす使用者や視覚障害者にとって物理的な社会環境が障壁が多いことは、わりに誰にでも気づきやすいことかと思います。ところが、知的障害や発達障害がある人にとって、例えば言語一つとってもその意味や文脈がわからなかったり、つかみづらいということは、とりわけ軽度の人に接するときには、気づかれにくいことはしばしば起こり得るかと思います。あるいは、さまざまな社会的なルール・決まりごと、常識(コモンセンス)といわれることも多数派が基準となっています。世の中で生きやすく、暮らしやすくなっていくには、その多数派に合わせざるを得ないのかもしれませんが、果たしてそれを当然のこととして思っていていいのだろうかと、ふと私は思います。
今から何十年も前のことですが、あるろうあ者カップル3組の結婚祝賀会に呼んでもらった時があって、その時の参加者200人ぐらいの大半がろうあ者で、健聴者はわずか10人ぐらいで、私は同じ聞こえる者同士と「(手話の)読み取り練習のいい機会やな」などと話しながら、どこか居心地の悪さを感じざるを得なかったのでした。学生時代から習っていた手話である程度、手話での会話もできてはいたのですが、ろうあ者同士での手話のスピードや表現についていくのは必死で、つまるところ、この時ばかりは、束の間の多数派⇔少数派の逆転構造に身を置くことになりました。しかし、裏を返せば、ろうあ者(聴覚障害者)をはじめ少数派の人々にとっては、いつもこのような状況(居心地の悪さ)に置かれているのだということを思わざるを得ない機会でした。
こう考えてくると、多数派が作っている社会的なルールを学ぶ・身につけるというソーシャルスキルトレーニング(社会適応訓練)をどう見るか、どう位置付けるかということも考え直してみる必要があるように私には思えます。
森