周波数(波長)を合わせる
このブログでも何度か取り上げたことのある美学者・伊藤亜紗さんが、宅老所よりあいという高齢者支援を行っている村瀨孝生さんとオンライン対談をしたことをきっかけに往復書簡をwebで交わしたものを本にまとめた『ぼけと利他』(ミシマ社)を最近読みました。伊藤亜紗さんの論考には、いつもいろんなことに気付かされて、読む前からワクワクするのですが、今回も期待にたがわず、刺激的な論考に何度も出会いました。
例えば、村瀨さんが、「僕は、要介護認定が好きで、嫌いです。」と書くところから始まる章(書簡)。「体の「できる/できない」ばかりに目をつけて、あげつらう調査のあり方が嫌いでした。」というところなどは、障害支援区分認定調査にも当てはまることで、そうそう!と頷くところです。で、続けて、「忘れる」という「できない」に対し、「忘れることにしている」という「方針」で応えるお婆さんに「わたしたち」はどう応答すればいいのでしょうか。その戸惑いを感じる瞬間が好きでした。/「今の季節がわかりますか?」「そりゃもう、最高の季節です。」/「お生まれはどちらですか?」「あなたこそ、どちらのお生まれですか?」・・・。「できる/できない」という質問を普通の会話に変える。質問に対して質問で返す。「できない」ことがバレないように取り繕うお年寄りの、飾り気のない機智が小気味よいのです、と村瀨さんは書きます(P.187~P.188)。私たちのの「できる」あるいは「わかっている(正解を知っている)」つもりで成り立っている仕組みや制度に一筋の疑問を突き付けてくるかのように私には思えました。支援区分や認定調査は、支援や介護の必要度の客観性を担保するために行うのだ、何故なら支援や介護の法定報酬は、その多くは税金で賄われるから、というのが国(行政)の言い分なわけですが、客観と名乗ることの主観性については、かなり前のこのブログ(2020年12月2日)で触れました。その人(お年寄り、障害者、障害児)が必要とするものは、本来数字で測れないはずだと私は思います。客観という言葉で納得してしまっていいわけでないと改めて思います。
また、村瀨さんは、「介護って、ず~っとチューニングばかりしている感じがします。電波の入りづらい場所で耳を澄ましながら周波数を合わせる。さまざまな雑音に紛れて聞こえてくる複数の声や入り乱れたメロディーの中からお目当てをとらえるためにダイヤルを回す。」(P.136)と言います。確かに私たち支援者と利用者の関係は、そのチューニングをお互いしていくなかで、「いい時間」を共にできるているのではないでしょうか。
伊藤さんが、全盲の友人が、介助者(手引き者)との関係で、「介助者と一緒に歩くと。「その人の中で『してあげたい』が一歩歩くごとに変わるのが楽しい」というエピソードを引き合いに、全盲の友人が図らずも介助者への利他を行っている、という刺激的な論考も詳しく紹介したいところですが、この論は、消化するのにもう少し時間をかけたいところなので、今回は、主に村瀨さんからのお話で示唆を受けたことに留めておきたいと思います。
森