名付けられたことの功罪
発達障害という言葉が定着してきたのは、この20年ぐらいのことでしょうか。私が学生時分に心理学などを勉強したころは、そもそも発達心理学という名称もまだ耳新しいものでした。むしろ児童心理学という科目の方が一般によく知られていたように思いますし、近接した分野では、教育心理学という科目もありました。そもそも知的障害という日本語もまだないころで、知恵遅れや精神薄弱という言い方が一般的な時代でした(さすがに白痴や痴愚、魯鈍という言い方は、古い教科書や百科事典で知るぐらいでしたが、ロシアの作家・ドストエフスキーの代表作の一つは、今でも『白痴』という邦題で出版されていますね)。そのころは、発達心理学という言葉(科目)が定着し始めたものの、まだ発達障害という言葉に触れることは、まだ私にはありませんでした(私が不勉強なだけだったのかもしれませんが)。もちろん、精神医学の世界では、例えばアスペルガー症候群という疾病名は広く知られていたのだとは思います(オーストリアの小児科医、ハンス・アスペルガーが症例を発表したのは1940年代と言います)。なので、知的障害はないけれども対人関係の結び方が独特、ないしは苦手であるという症例が報告され、かつ精神障害の診断の一つとされたのはそもそも1940年代にさかのぼれます。なのに、それから50年以上も経ってから、日本でも頻繁に教育や福祉の世界でも、発達障害やADHD、アスペルガー症候群、自閉症スペクトラムという言葉が飛び交うようになったのはなぜでしょうか?
例えば、人付き合いは難しい、偏屈ではあるけれども、物作りに優れた職人という人はいくらもいたけれども、昔はそういう人のことを発達障害があるとはわざわざ言わなかったのに、なぜ障害という言い方に変わったのでしょうか?(それこそ、「偏屈」「偏こ」という言い回しですんでいて、しかもその言い方にはどこかしらその人を尊重する響きもあって、そういう人との接し方を周りの人も自然と或いは経験的に学んでいってたはずです。)
ADHD、日本語では注意欠如多動症と最近では訳されていますが、それが症状(疾病)とされるのは、今の社会生活や学校教育では、一定時間、人の話に注意を向けて、机を前にして椅子にずっと座っていないと立ち行かないから、と捉えることができないでしょうか。ただこの注意欠如多動症、というのは病因(原因)が明確にわかっているわけではないと言われています。脳に何らかの障害があるとも言われていますが、そう簡単に断定できないとも言われています。病因がわかっていないのに、疾病名があるというのは身体的な疾病ではおよそ考えにくいことです。例えば、下痢という症状があれば、それは風邪から来るものなのか、あるいは食あたりによるものなのか、によって対処も変わってきます。ですが、発達障害ではさしあたりそう名付けるしかない、ということなのでしょう。何らかの疾病名がないと、行政的には何の援助も得られない(手当ももらえないし、手帳を取ることも、デイに通ったりヘルパーを使うこともできない)し、周りもどう対処していいかわからないということで、名前が付けられているのだと、私はそう理解するようになってきました。
と、そう思うのも、例えば多動と言ってもどれぐらいあちこち動き回るか、どこからが多動症か、注意欠如といっても誰でもうっかり注意を怠ったということは日常的に経験しているということからすれば、どこからが注意欠如症になるのか、明確な線引きがほんとに出来るのか、と疑問に思うからです。名づけることで、何らかの支援を受けたり、配慮してもらえるということは功(メリット)と言えますが、名付けることで何か自分とは別物、定型発達とは違う人という風にだけ捉えられると、それは功罪の罪とも思えます。
また、脳に何らかの異常があるのかも、という説は、親の育て方に問題があるとか愛情の問題だと言って、親が不当に偏見を持たれることを退けることにはなるかもしれませんが、自閉症にしても知的障害(精神遅滞)にしても、実は脳との因果関係はよくわかっていないという精神科医や発達心理学者がいます。ところが、私たちはともすれば、わかりやすい原因や断定された説や話に飛びつきやすいものです。
脳科学がもてはやされ、その類の本がよく売れ、マスコミで取り上げられると、そんな言説に流されやすい危険があると私には思います。脳を鍛えればもっと賢くなるとか、症状が消えるとか言われると安易に人は飛びつきやすいものです。かく言う私も、例えば「ホンマでっか!TV」とかはちょくちょく見ていますが、番組のテロップでも流れているように、”ホンマでっか?”という気持ちで、そしてあくまでもバラエティー番組だという目で見る姿勢が必要であると思っています。バラエティー番組で語られる言説をうのみにすると、とんだ偏見や誤解を持つことにつながっていくことになってしまうかもしれない、と心得ておきたいものです。
森