制度が生み出すもの、制度で守られるもの
村上春樹が、同じ作家の川上未映子によるロングインタビューに答えて「僕がいちばん「悪」であると見なすのは、やはりシステムですね。」「もっとはっきり言えば、国家とか社会とか制度とか、そういうソリッドな(引用者による注:堅固な)システムが避けがたく醸成し、抽出していく「悪」。もちろんすべてのシステムが「悪」だとか、システムの抽出するものがすべて「悪」だとか、そんなことを言っているわけじゃないですよ。そこには善なるものももちろんたくさんあります。しかしすべてのものに影があるように、どのような国家にも社会にも「悪」がつきまといます。」(川上未映子 村上春樹『みみずくは黄昏に飛びたつ』p.408~p.409)というようなことを語っています。
私たちは、日本という国のシステム=制度に守られ、生活も保障されているという側面は否定しようもありません。とりわけ私たちのように、障害福祉や児童福祉という分野の制度に基づく事業を行って、それでもってなりわいを営んでいる者にとっては、制度がなければ、別の形で子どもたちの支援を行うか、全く違うことで自分たちの生活を立てていくかを余儀なく迫られます。ですので、制度で決められた枠の中で、制度を守って子どもたちの支援を行っているわけですが、制度=システムが孕む融通の利かなさ、あるいは形あって魂入らず、とでも言えるようなことにともすれば陥りやすいものであることは、しっかり自戒しないといけないことだと痛感しています。
制度が、人(の生活)を守ることが目的であるはずなのに、逆に人の生活を傷つけることもあってしまう、ということは、例えばハンセン氏病患者への隔離施策の歴史やかつての優生保護法による断種の正当化、といったことを取ってみても明らかかと思います。そして、それはかつての政策がそうであって、今は違う=制度は100%善だ、なんて言えるような状況にあるとは到底私には思えません。であるとすれば、制度の上に立って日々の活動を行い、子どもたちに関わっている私たちが心しないといけないのは、制度をよりよくしていく努力でもあるし、でもどこまでいっても完璧な制度がないことをわきまえて、制度に忠実であることよりも目の前の子どもがいる状況に目を向ける意識であると思います。そして、それもできる限り多角的にとらえて、それに応じた行動を取っていく努力が、私たちにとって大切なことなのだと思います。
森