再び「子どもの権利条約」をめぐって
子どもの権利条約で謳われている生きる権利、守られる権利、育つ権利、参加する権利が、なぜ声高に語られなければならないかを痛切に感じざるを得ない映画があります。
中東のイラン、イラク、トルコ、各国の国境付近に住む、国を持たない世界最大の民族と言われるクルド人監督が、クルドのある子どもだけで世帯を構成している生活と生を描いた「酔っぱらった馬の時間」という映画がそれです。この映画も劇映画なので、現実そのままを描いているとは必ずしも言えないですが、子どもの権利は守られているか、否、以下に踏みにじられてしまうかを痛いぐらいに見せつけられ、でもきょうだいがお互いを思いやるけなげな姿も映し出され、胸を打ちます。
10代半ばぐらいかの先天的な身体障害を持った長男マディは、難病を抱え近い将来に手術を受けないと死ぬ、と医者に言われます。母はすでにこの世になく、父も地雷を踏んで亡くしたきょうだいは、マディの手術代を手にするために、姉ロージンは、マディも同居させてもらう約束で財産家の家に嫁ぐはずでした。ところがいざ、その日を迎え嫁ぎに行くと、同行していたマディだけ追い返されてしまいます。残されたきょうだいで手術代を捻出する必要に迫られ、降りしきる雪の中、弟アヨブが国境警備隊も待ち構える危険を冒して国境越えの密輸に加わります。雪深い山道を厳冬の中、重い荷を背負ってもへこたれないように、密輸団は、酒の混じった水を馬に飲ませます。そんな危険を冒さないとマディの命の保障はないという過酷な運命の中、きょうだいはお互いをいたわりあって暮らしている、という姿が描かれています。
生きる権利・・・ 守られる権利・・・ 育つ権利・・・ 参加する権利・・・ このきょうだいにとってはないないづくしです。だからこそ、声高に主張しなければならないのです。これを住むところもままならない遠い中東の国のこと、それもフィクションだといって捨象するのか、現代に生きる自分たちのことと捉えるのか。一人一人の子どもの権利をいかに大事にしていけるのか、重い宿題は残り続けます。
(映画自体のことを語るのは本筋ではありませんが、こんな映画に出会ってしまうと凡百のハリウッド映画を観る気にさらさらなれません。とはいえ、この映画は十数年前のイランで作られた作品、私は発売後すぐにDVDを買って何度もこの作品を観ていますが、今となってはなかなか観れないかもしれませんが。)
もうひとつ蛇足の話。少し前のこのブログで触れた「運動靴と赤い金魚」というやはりイランの映画。この映画の中では、主人公きょうだいは、容易に運動靴を買ってもらえず、ぼろぼろの靴を修繕して学校に行っていますが、一方で自宅にブランコもある広い庭を持った家に住む少年も対照的に出てきます。体制批判の作品を作れないイランの映画関係者は、子どもを描く映画の中でなんとか社会風刺を織り交ぜようとした、という話も聞いたことがあります。
明日からの長い連休、私は京都で開かれているという「よみがえる沖縄1935」と写真展を観に行ってこようと思っています。
森