今のこの身体で生きていること
確か2年ぐらい前のこのブログで取り上げた『目が見えない人は世界を世界をどう見ているのか』という本を書いた伊藤亜紗さんが、昨年秋に出した『記憶する体』(春秋社)を最近、読みました。私は、大学時代以降、聴覚障害者や視覚障害者や上肢欠損・・・とさまざまな身体障害者に出会ってきていますが、この本の中で伊藤さんが出会ってインタビューしたさまざまな身体障害者の話をたどると彼らが、自分の今の体とうまく付き合いながら日々暮らしている(また暮らそうとしている)ということの発見がいくつもありました。逆に言えば、長年障害がある人との付き合いを重ねながら、こんなことも自分は知らなかった、気づかなかったんだということを反省させられる読後感に至りました。
一例をあげると、伊藤さんの知り合いの研究者から、視覚障害者向けに、目の前の景色を「見せる」ための触覚モニターを開発してはどうか、という相談を持ち掛けられたが、その場にいた全盲の当事者は「要らないなあ}と即答していたというのです。晴眼者がみている景色を全盲の人にも見せて上げれたら、というのはあくまで晴眼者の発想、晴眼者の感覚の世界のことにすぎないということを事もなげに突き付けられたわけです。そういえば、私の知る何人かの聴覚障害者が、もし今度生まれ変わるとしても聴覚障害者として生まれたいということを言っていたことを思いだします。
健常者の私からすれば、聞こえた方がいっぱい音楽を聴くことができるし、見えた方が美しい花や景色や空や海を見ることができるし、と思ってしまうのですが、生まれつき聞こえなかったり、見えない世界で生きている人にとっては、聞こえる世界あるいは見える世界で生きたいと必ずしも思うわけではない、ということかもしれません。そう考えると、知的障害がある人にとっても、健常者仕様で成り立っているこの世界でいきづらさを感じるところがあったとにしても、知的障害がない世界で生きたいという(あるいは障害が軽減される世界で生きたい)と思うのかどうか怪しいようにも思えてきます。私が、今のこの身体で生きざるを得ないように、それは障害がある人にとっても今のこの身体とうまく付き合って生きていくしかないのだといえます。
『記憶する体』では、同じ視覚障害者でも先天的に全盲の人、幼いころに見えなくなった人、10歳ごろまで見える世界で生きていた人、といくつかの例を挙げていて、それぞれの人にとって、色に対するイメージが違っていることが詳細に語られていて、自分が持っている感覚世界でこうも世界に対する感じ方や見方は変わるものだということがわかります。上肢欠損の人の中でも、交通事故などでそれまで持っていた上肢を喪失した人が持つ幻肢・幻肢痛が、先天的に欠損している人にはそのような感覚がまずないということを知れば、私たちは知らず知らずのうちに自分の体について持っている言わば身体イメージのもとに日々感じ、動き、世界に対しているということを意味しているのかもしれません。このことは、物ごとを認識する力が異なる場合(例えば、知的障害がある人)にも当然世界の見え方・感じ方が違ってくるということにもなります。
私たちは、知的障害がある人、発達障害がある人の一人一人がどんなふうに世界をみて、また捉えていて、毎日を生きているのか、感じているのか、働きかけようとしているのか、にもっと思いをはせる必要があるように伊藤亜紗さんの本を読んで思いました。
森