人(誰か)に必要とされること
前回、このブログで「自分を愛する心」について書きました。そしてそれは、自尊感情を育てる、とか自己肯定感を高める、というときの言う人のスタンス(姿勢)や視点、あるいは立ち位置に対する違和感についても述べました。今回は、前回の話と少し似ていますが、ちょっと角度を変えたことを綴りたいと思います。
内山節さんという哲学者が、おそらく30歳前後のころにフランスを中心としてヨーロッパを旅した経験をもとに思索した『フランスへのエッセー~贋金づかいの街にて』という本を出しています(1983年・三一書房 初版)。この本には、フランスとスペインの国境にある小さな山村で過ごした日々、とりわけ内山さんになついたピレネー犬とのエピソードなど魅力的な話がいくつも綴られていますが、その日々のうちでジブラルタル海峡を渡ってモロッコを訪れたときの話を、この本を初めて読んだ時から30数年を経た今も、私は鮮明に覚えています。
内山さんは、モロッコの地を踏んで港の建物を出た途端、たくさんのモロッコ人に囲まれ、次から次へと英語やフランス語で、換金の誘いや買い物値引き交渉の代行、ガイド・通訳を申し出る人が現れては、断るという事を繰り返します。その煩わしさからついに内山さんは彼らに「帰ってくれないか。」「僕はガイドも通訳もいらない。僕は君たちを必要としていない。」と言い放ちます。
そのとき僕はハッとした。ガイド兼通訳希望者が、誰もが僕と同世代の青年で
あることに気付いた。それに僕よりはるかにうまく英語とフランス語を使う。僕
を取りまいていても服を引っ張る者は一人もいない。彼らはきっと、案外親切で
信頼のおける人たちに違いない。それに多分高等教育を受けているのだろう。
要するに職がないのだ。でもそれに気付いた時はもう遅かった。僕についてき
た青年たちはとぼとぼと去って行った。恥かしそうに、そして淋しそうに。
去っていく一人が一人言を言った。
「君たちは必要ではない……か。必要な人間ではない……か。必要ではない……
か。その通りだ。」
悪いことをした。あんなにきつく断る必要はなかった。僕はやっと一人になっ
た。それなのに。観光客のまわりに群がってその日の稼ぎを得る生活、それが僕
と同世代のモロッコの青年にとっていかに苦痛な営みだったか、僕はもう少し考 えるべきだった。 (同署 105ページ)
人は関係の中で生きています。ところが、自分の存在が必要ではない、と言われたらどんな思いで人は生きていけるのでしょうか? 生まれたことが祝福され、その育っていく姿を周囲の人からほほえましく見守ってもらうことで、人はすこやかに育っていくのだと思います。
それは、子どもの時だけではなく、大人になってからも同じことで、私たちにしてもこの仕事をしていることで、誰かに頼られ、誰かに必要とされていると思っているからこそ、仕事のし甲斐を見出しているとも言えます。 日々食べていかねばならないとしても、自分のしていることが意味のない、必要ではないことだと思ったら無気力に陥っていく危険性をはらんでしまうのでは、とも思えます。
人(誰か)に必要とされる存在であること、それは今いるだけでいいという存在の絶対的肯定につながっていくべきものでもあると思います。そういうことを基本におきながら、私たちはこの仕事に携わっていきたいと思っています。
森