人とつながるものとしての言葉と思考としての言葉
知的障害、発達障害がある子どもに、言葉を話す/話さない、ということがよく問題になります。言語聴覚士のところに足繁く通われる家庭も多いかと思います。ですが、単に言葉と言っても独語もあれば、自分の思いや考えを整理するための言葉(内省する言葉)もあり、また人とのコミュニケーションとしての言葉もあります。自閉症の人にとっては、このコミュニケーションとしての言葉でつまづきを覚えることが往々にして見られます。言葉を話さなかった子どもが、言葉を話すようになって、自らの気持ちや思い・考えを他者に伝えられるようになると、もどかしかった思い、それまで泣いたりわめいたり、時に身体を使ってしか表現できなかった思いが、言葉で伝えられる喜びで、いっぱいしゃべるようになることもよく見られることです。そして、その言葉は、時に元々の言葉の意味と微妙にずれていることもあるかもしれませんし、その言葉が伝わる人と伝わらない人が出てくるもあり得ることかと思います。
このようなことを整理して、人に向けて話し、言葉を交し合うことを言語行為(パロール)といい、それに対して確立された言語(日本語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、英語、ヒンドゥ語…)のことを言語体系(ラング)と区分けする捉え方があります。「言語行為こそが他者を、…(中略)…その他者の言語行為を言語行為として、つまり出来事として拒否したり受け容れたりする対決の中で他者と応答する」とメルロ・ポンティ(フランスの哲学者)は言っています(1959年2月の研究ノートより:引用は『見えるものと見えないもの』みすず書房邦訳版p.248)。この言語行為こそが、各瞬間に世界を再布置化し新たな意味を想像する、と言語学者ソシュールは主張しているそうです(前掲邦訳訳者・滝浦静雄、木田元による訳注より)。難しい言い回しですが、つまりは言語体系で確立された言葉よりも生身の人と人との間で交わされる言葉(言語行為)こそが、コミュニケーションとしての言葉として意味を持ちうるものだというように私は理解しました。ということは、この言葉の使い方は、意味として正しい/正しくない、ということに囚われるのではなく、お互いの中でどのように交わされる言葉の意味が了解しあえるのか、ということこそが大事なのではないかということだと思います。
その他方で、人(子ども)が自分の考えや思いを確かめる、あるいは整理する際に使われる(想起する、文字にする)言葉ということもあります。これはこれで、人が内省するうえで、人の精神生活で大事になってくるものでもあります。ここは、知的障害がある人にとっては、コミュニケーションとしての言葉以上に苦手とするところかもしれません。というように、単に言葉や言葉の獲得ということに焦点を当てたとして、その言葉には多様な側面があることを抑え直すことは大切なことであるように思います。
森