デイが児童福祉であることの意義(2)

 前回、放課後等デイサービスが6年前(2012年)に、それまでの障害者自立支援法(現在の障害者総合支援法)から児童福祉法に規定された制度に戻ったと書きました。福祉であるということは、教育でも訓練することでもないとも書きました。位置づけられている法律のことをグダグダと書くのは、放課後等デイサービスが社会的にどう認められるか、ということに事業者も保護者ももうちょっと意識した方がいいのでは、と思うからです。少子高齢化が急速に進む日本社会で社会保障費が増えるのは致し方ないとしても、何でもかんでも税金が投入されるべきなのか、という議論は付きまといます。一定程度の利用者負担があるとはいっても、その費用の9割以上は公費、つまり税金ですから、社会的な理解を得ることは避けて通れない問題です。
 今年度からの障害福祉サービス等報酬改定でも、国は前提として、この制度が持続可能であるためにメリハリをつけて効果的な報酬設定を行う、というような趣旨を示しています(厚生労働省「平成30年度障害福祉サービス等報酬改定について」2018.2.5)。事業所が増え続け、データ上は収支率も高いということで、放課後等デイサービスに対して厳しい目が向けられる向きもあります。このようなときであるからこそ、私たち事業者は、卑屈になるのでもなく、また引け目を感じることもなく、堂々とその社会的意義を意識して、子どもの福祉に寄与する活動(事業)を行っていくべきだと考えます。

 福祉制度が国の責任で行われている根拠の一番の基礎は、言うまでもないことですが、日本国憲法です。第25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」、また同条第2項の「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と明記されています。国が、どんな人にどんな福祉を行っていくべきか、あるいは必要なのか、というのは時代とともに、また一定の社会的合意により、変わっていきます。障害を持った子どもへの福祉制度としてなぜ放課後等デイサービスが必要なのか、ということは社会また国から問われるまでもなく、私たち事業者が常に自問自答しなければならないと言っても過言ではないと思います。障害を持った子どもの福祉、また生活にとってデイはどうあるべきか、ということは常に点検されねばならないと思います。
 もうひとつ、福祉制度の中でもとりわけ、児童福祉ということに着目したとき、子どもの権利条約を省みておく必要があると思っています。子どもの権利条約は、1989年の国連総会で採択され、日本でも1994年からその効力が発生となっている国際条約です。この条約の大きな柱は4つ。生きる権利(すべての子どもの命が守られること)、育つ権利(もって生まれた能力を十分に伸ばして成長できるよう医療や教育、生活への支援などを受け、友達と遊んだりすること)、守られる権利(暴力や搾取、有害な労働から守られること)、参加する権利(自由に意見を表したり、団体を作ったりできること)の4つです。→( )内の注釈は、ユニセフの子どもの権利条約について解説した文からの転用・引用によります。    この権利条約で特に強調されているのは、子どもにとっての最善の利益が得られる措置を締約国(つまり日本も)は取らなければならない、ということです。私たちは、この条約に見られる考え方もしっかり踏まえておく必要があると思います。
 たいそうな話になりましたが、目の前のことや法改正・報酬改定に目を奪われて右往左往するのではなく、私たち事業者が心しておかなくてはいけない立ち位置を確認することは。、私たちの事業が社会的な合意を得る上でもとても大事なことだと考えます。

 蛇足ながら、日本国憲法は、もともと英語で書かれた文の翻訳が私たちが学校で習ったりしたものですが、池澤夏樹という作家が独自に翻訳した第25条を最後に記しておきたいと思います。池澤さんの翻訳文を読むと、憲法の条文に抱いてしまう堅苦しい感じが、ちょっとはなじみやすい文章になっていると思いますので、あえて引用しておきたいと思います。(『憲法なんて知らないよ』2003年、集英社 より)
「第25条 ①すべての人に、最小限でも健全で文化的といえる生活をする権利がある。 ②社会ぜんたいの、幸福と、安全と、健康が実現するように、国は生活のあらゆる面に対して努力を重ねなければならない。」

                                                                       森