ダラダラした時間
「セトウツミ」というマンガ、そしてその原作を基にした映画、テレビドラマがあります。私は、2年ぐらい前の菅田将暉と池松壮亮が主演した映画でこの話に初めて触れました。舞台は、ちゃんぷるでも何度か外出で遊びに行った堺市にある通称・ザビエル公園の裏手にある運河沿いの遊歩道。漫画でも明らかにその場所でしかない風景描写で、馴染み深い者にとってはそれだけでも心くすぐられるますが、映画は二人の高校生が、放課後のわずかな時間で運河べりでただただ他愛のない話をグダグダ繰り広げるだけのなんてないことの話です。怖い先輩がいたり、ほのかな恋があったり、高校生の日常の一部を切り取っただけの映画です。
一人は優等生ではあるが、人に対して容易に心を開かない内海。もう一人はサッカー部を辞めてこれといって打ち込むこともなく過ごしている瀬戸。その二人が、内海が塾に行くまでの暇つぶしの時間で、二人でダラダラするだけです。大人からすれば(もうちょっと狭めて言うと親目線では)、もっと何か有意義に過ごせば、とも思える時間ですが、実はこうしたどうでもいいようなグダグダした時間が、もし許される環境にあるならばむしろ貴重なことのように私には思えます。
高校生のころ、私も河内長野から近鉄に乗って帰るべきところ、南海沿線の友達と南海電車に乗って、金剛に住む友達の家まで一緒に歩いて他愛のない話を続け、友達と別れてから近鉄の川西駅まで歩いたりしたことも何度かありました。
大人である私たちは、自分が子どもの時どんな風に毎日を送っていたかを忘れて、完成(といっていいかどうか疑問があるところですが)された立ち位置で子どもに対して、こうすべきだ、もっとこんなことを身につけるべきだ、という見方で子どもに接しがちになっていないでしょうか?
高校生のころ、少なくとも私は、今の自分の姿を思い描くことはできませんでした。大学生の時すらまだ迷いがあり、紆余曲折があって、さまざまな出会いがあって今の自分があります。
障害を持っている多くの子どもは、18歳で社会人になる状況にあります。そういう現状では、あまりダラダラした時間は多くは持てないのかもしれません。でもデイでは可能な限りそんな他愛もないグダグダ、ダラダラした時間を持ってもらえたらと思います。一見、目に見えない無意味な時間のように思えてもそれが誰かのことを大切に思ったり、あるいは夢中になれる何かを見つける下ごしらえの時間になったりするかもしれません。
「セトウツミ」は、昨年完結しましたが、そのラストは思いもよらない方向に話が進み、ぼんやりとは描かれていましでたが、内海が発達障害と診断されたと匂わせるエピソードも描かれています。フィクションなので、極端に描かれていますが内海の家族の姿(家族関係)には考えさせられるものがあります。そして、二人のダラダラしたモラトリアムの時間(執行猶予の時間)の終わりも告げられますが、それゆえこれまでの時間がいかに貴重であったかも、嚙みしめることにもなります。
映画の「セトウツミ」はこの漫画の始めのころの話なので、ラストにつながる話は原作の漫画またはテレビドラマ(DVD化されています)でたどることができます。興味を持たれた方は、ぜひご一読またはご鑑賞を。
森