コミュニケーションとしての言葉

 知的障害・発達障害がある子どもの保護者が、よく願うこととして聞くことに、言葉を話してほしい、ということがあります。全く話さなかったり、声は出ているけど、意味のないことを言っていたり、喃語だったり、ということだと、話してほしいと思うのは、保護者としては当然の望み・願いであると思います。ですが、言葉を何か言ったとして、それが人とのコミュニケーションとして使われるのではなく、例えば、テレビコマーシャルのフレーズを口走ったり、歌のフレーズをなんとなく歌っていたり、というものにとどまっているのであれば、言葉の持つ意味合いは全く性格を異にしているといえます。むしろ、言葉は話さないけど、人の顔を見て、指差しだったり身振り手振りでな何かを伝えよとする行動が見られるのであれば、その方がよほど意味があることのように私には思えます。言語訓練によって、発音や滑舌を診てもらう・良くする、ということはありますが、よく保護者から聞くこととして、1対1の訓練場面を嫌がる、嫌々やっている、ということがあります。このようなことを聞くと、よく大人になった肢体障害者が、「子どものころ、親に訓練(注:おそらく理学療法や作業療法のことだと思われます)ばかり強いられて嫌だった」という話をされていることを思い出します。嫌でも、受けたことが何かの身になっていっているとすれば、訓練の意義を否定するものではないとは思いますが、このような話を知的障害がある子ども・発達障害がある子どものことに置き換えてみると、何とも複雑な思いに囚われます。
 言葉を話すというそのものより、人とのコミュニケーションを交し合おうとしているのであれば、それが明確な音声言語でなかったとしても、人に向けられたわけではない言葉よりも、よりコミュニケーションが取ることができているといえるのではないでしょうか。言葉は、伝達するもの・思いを交し合う手段(方法)だという観点に立てば、何よりも人との関係性をどう作っていくか、ということに主眼を置くことが大切だと思います。そのような見方に立って、言葉やコミュニケーションをどう育てていくかということに向かうことができれば、と思います。

                                                 森