こだわりはどこから来るか?
知的障害や自閉症と言われる子ども(人)で、「こだわりが強いね」という話がよく出てきます。物事を行う手順や位置、道順、習慣化された予定など。それらが何かの都合や事情で変化や変更があると、不安になる、緊張感が強くなる、もっとひどいときは、いわゆるパニック状態になる、ということも見られます。
思い起こせば、私も子どものころ、家に色違いの食器がいくつかあって、絶対に青でないと嫌、ということがありました。また、寝る時に必ず枕元に置く犬のぬいぐるみがあって、あまりに長期間手放せなかったので、その縫いぐるみはぺちゃんこになって薄汚くなってもずっと一緒でした。でも、それほど固執していたのにいつの間にかその犬のぬいぐるみから卒業できていました。一方で、青の食器は、大人になって実家を離れるようになるまで家族の中でずっと私が使い続けていたと思います。家族のほかの者がその青の食器を使うことは、私には許せないという感覚があったと思いますが、家族はだから決して青の食器を私以外が使うことはなかったと思います(単に私がそう記憶しているのに過ぎないだけかもしれませんが)。
青の食器ということについては、単に色の好みということで話を終わらせることもできるかもしれませんが、以前ちゃんぷるに来ていた子どもでも青が好きな子どもがいて、カバンなどを入れる籠、また色違いの食器は「青」と言って、絶対青でないとごねるという姿が見られ、自分と同じと思わず苦笑い、ほほえましく思いました。
その子どもは、高校生になってからのある時期からちゃんぷるの活動の時間が終わると、一人で帰るといって、歩いて家に帰るようになりました。それはそれで成長のあかしであり、また力をつけたということでもあり、いいことなのですが、家に帰るルートが遠回りしてでないといけないのです。一二回、こちらからの道の方が近いよ、ということを帰宅の練習で私が付き添ったときに伝えたりしたのですが、彼は頑として自分で解っているルートから変更することはありませんでした。彼が解っているルートは、大通りまで出て、そこから曲がるというルートでした。そのルートであればほかの日に併用していた他の事業所からの帰り道と途中から合流するルートでした。最短と私たちが思うルートは、彼にはなじみのないルートであり、そんな彼にとって未知のルートを選択するつもりはなかったのでしょう。
ここからわかることは、認識する(世界をより深くより広く知る)力がまだ同世代のいわゆる定型発達と言われる子どもに比べて弱くて、自分にとって未知の世界に踏み出すことなど怖くてできないということだったのではないかと思います。もし彼の道順へのこだわりを遠回りや不合理だと言って、無理に矯正を図ろうとすると、泣いたり動かなくなったりしていたでしょう。ただ、このように言うと、それは甘やかしているというように思う(言う)人もいるでしょう。しかし、本人の不安や緊張感を無視あるいは軽視して、矯正を図ることがいいとは私には思えません。
知的障害の人のこうしたこだわりを、本谷研司さん(精神科医)は、「たとえばある事柄に関してABC三つの選択肢があるとして、そもそもAしか知らない、またBCの選択肢について提示ないしは説明を受けたとしてもそれが理解できなければ、A以外を選ぶことについてはAを失う不安をもたらすだけであり、結果Aにしがみつく(こだわる)になるのは不思議ではない。また、知的障害というものの本質が「理解のおくれ」である以上、何度も繰り返したり時間がかかったりすることは必然的に伴われる。そういう意味では我々は、時にこだわりをなくすことにこだわりすぎないようにしなければならないだろう」と言われています(公開講座「知的障害とこだわり」2018.1.23より引用)。
知的障害の人にとって、ではどうやって理解を広げ深めることができるか、というとそれはやはり彼・彼女にとって安心できる人(保護者・きょうだい・支援者など)の所作・振る舞い・行動を見て、これなら大丈夫かもしれない、BやCの選択肢でもいいかもしれない、と思ってもらえることかと思います。そして、そのような関係を私たちが作っていかないといけないということだと思います。その際に、例えば視覚提示やカードなどの使用など工夫や道具も必要になるでしょうが、なにより大事なのは認識の発達は、関係の発達に支えられる(逆も言えますが)ということだと思います。先の、道にこだわりのある彼と私との関係は、その未知の世界の不安を消すほどの安心感を持ってもらえてなかったという反省にもつながるのですが、今でも時々街で見かける彼は、いつもにこにこしていて世界は楽しい、というふうに見て取れて、こちらまで気持ちがほっこりしてきて、ちょっぴり救われます。
森