いじめられた者の傷
大人になってからというもの、シドニーオリンピックで高橋尚子さんが金メダルを取ったときのすがすがしい走り以外、オリンピックでほぼ感動したことがなく、今回も7人制ラグビー以外は、まともに観戦しておらず、どのチャンネルもオリンピックばかりでうんざりしています。その分、ラジオや好きなCDをかけて過ごす時間が多くなっていて、オリンピックにはほぼ関心がありません。ですが、今回のオリンピックにまつわる、うたい文句とは裏腹に多様性を否定するかのようなさまざまな問題は、現在の日本社会が抱えている問題を顕在化させるようなことごとだと思えます。その中で、開会式に関わって、小山田圭吾氏の少年時代のいじめと、そのことを大人になってから雑誌のインタビューで発言した内容に対する批判は、当然のことと思います。ただ、オリンピックの開会式に絡んでの辞退をめぐっての話に焦点があたりすぎて、問題の核心はそこではないと言いたくなります。彼らのいじめのターゲットにされた者の心身にわたる手ひどい傷を想像すると、いたたまれなくなり、なぜこのような仕打ちを受けないといけなかったのか憤りを感じます。彼らのターゲットにされた者が、その後どのような人生を歩んでいるのか、人格を根源的に否定されるような仕打ちを受けて、よく死なずにいてくれた(のであろう)、というのが、この報道を知ったときの最初の思いでした。小山田氏が参加していたフリッパーズ・ギターは、かの小沢健二が渋谷系として華々しく活動していたバンドであり、小沢健二は今でも私はよく聴いています。小山田氏のソロユニット、コーネリアスは私は聞きませんが、こうした彼の音楽経歴がどうであろうと、彼の行為によって傷つけられた者の傷の深さは計り知れないことを思った時、闇の深さを思います。
私は、ずっと関西で暮らしてきているので、和光大学付属小・中・高校がどのような校風なのか、ほとんど情報を持ち合わせていません。ただ、和光学園は、教育学者・梅根悟さんが設立したリベラルな学びを目指した学校であると思っていたので、その学校法人内でかくもひどい行為が行われていた、ということは、より社会のひずみを感じざるを得ません。障害がある子ども(人)とどういう付き合い方をしていくのか、子どもは世(周囲)の人々の振る舞いや感じ方を知らず知らずのうちに吸収していく面があり、問題の根深さを思います(因みに、小沢健二も和光大学付属学校にいたそうですが)。私たちのような障害がある人(子ども)と身近にいる者の立ち位置や行動がどうなのか、襟を正す機会ともとらえねればなりません。
森