いくつものバリア

 2016年7月に起きた相模原事件の公判が始まっています。被害者家族が「(障害者家族は)悩みながらも子育てして、小さな喜びを感じている。その喜びを奪った」と思いをぶつけると、被告は「いたたまれないです」とつぶやいた。と言いながらも、別の被害者家族が「どうして殺したのか」と質問すると「意思疎通のとれない人は社会の迷惑だ」と述べた、と新聞報道されています。事件後4年経っても被告の、言葉では意思表示できない知的障害者への考え方・見方はちっとも変わっていないと取れてしまいます。
 私が、相模原事件で、何とも言えない重い気分になるのは、しかし単に被告の考えの変わらなさ、多くの知的障害者が殺傷された、ということだけによるのではありません。社会で、どこまで明言するかどうかはともかく、被告のような考え方に共感するというのはさすがにないにしても、いくらかでも理解を示すような風潮があるように感じられてしまうからです。端的に言えば、働けない者は社会のお荷物だという考え方が、そこかしこに巣くっているように感じるのは思い過ごしでしょうか?
 障害者差別解消法が施行され、差別的取り扱いの禁止と合理的配慮が社会に求められるようになりました。それもあって、物理的なバリア(障壁)は、ちょっとずつでも解消されてきています。2~30年前と比べれれば、少なくとも大阪市では、地下鉄の全駅にエレベーターが設置され、ホーム柵も順次設置されてきています。また市バス(現シティバス)は、すべてノンステップタイプになりました。ですが、物理的な障壁除去(バリアフリー)以上に大事な心のバリアフリーは、あまり進んでいないと感じるのは私だけでしょうか?心のバリア、と言っても目に見えないだけに、問題化しにくいことも多いと感じています。
 相模原事件は、そのようなこの現在の日本社会が持っている心のバリアを象徴するようなことだったと私には思えてなりません。たとえ、物理的に大きな入所施設を失くしても済む問題でもなく、重度の知的障害者が地域で生きていく資源・支える人・環境、そして心のバリアフリーなくして問題はどん詰まりになるだけと私には思えます。そのような状況に、つくづく自らの非力を思い知らされますが、嘆いているばかりでなく、今自分にできると思えることを、少しずつでもやっていくしかないと報道に接した今、思っています。

                            森