『「発達」を問う』を読んで

 発達心理学者の浜田寿美男さんが、40年~50年にわたる発達心理学者としての考察を継時的にまとめた『「発達」を問う』をこの4月に出版されました。発達心理学者でありながら、何とも刺激的なタイトルの本を出し、発達を批判的に捉えるというか、距離を取って問うというのは、奇妙にも思えるかもしれませんが、大学時代に浜田先生の授業やゼミによく出入りしていた私にとっては、いかにも浜田先生らしいと合点がいくタイトルでもありました。浜田寿美男さんが、何かを考察する時に、まず基本としたことが、あらゆる当たり前・自明とされていることを、一旦カッコに入れる、つまり現象学で言うエポケー(判断停止)という姿勢です。
 浜田さんが、この本でも書かれているように(p.26)、私が大学に入ったころは、児童心理学や青年心理学という名前の方がなじみがあって。発達心理学(浜田寿美男)という科目を目にして、これは、児童心理学や青年心理学とは何が違うのだろう?わざわざ別の名称でくくられるのには、どういう意味があるのだろうという素朴な疑問をもちました。と言いつつ、既に私の入った大学では、臨床心理学や教育心理学という科目はあっても、児童心理学という科目はなく、おのずと発達心理学を受講することになり、発達心理学と児童心理学の違いを比較する・考えるという姿勢にならないまま、浜田さんの発達心理学を受講して、それはまた同時期に受講した臨床心理学ともかなり違った内容でした。今回、この本の中で、「児童心理学は単に「子どもの心理学」ではなく、子どもの心性の独自性を前提にした児童中心主義的傾向の強いものであった」(p.27)という分析に触れて、合点がいきました。それは、「客観的」で「科学的な」学問という位置にはならずに消えていって、代わって、発達することが言わば要請される現代社会の価値意識に裏打ちされ、発達させるにはどうしたらいいか、どうしたら力を伸ばせるか、と言ったことをテーマに扱う発達心理学が隆盛を極める時代にますますなってきているのが、この数十年の変遷と言えるのかもしれません。現に、障害児支援でも、児童発達支援、という言葉(用語)が何の反省的な意識もなく使われ、またそれが大事だよね、という前提で制度に関する議論もなされてきていると言えます(厚生労働省のチームでまとめられた2022年の「障害児通所支援の在り方に関する報告書」及び2023年の「障害児通所支援に関する報告書」)。ですが、ひねくれた言い方をしますが、子どもは常に発達するもので、その発達を支援することが、児童支援・障害児支援の何の疑うこともない役割なのでしょうか?
 このことの議論で思い出すのが、どんなに重い障害がある子どもでも発達する道筋があり、それを保障すべきだという「発達保障論」と、それに対して盲ろう者の福島智さんが発達保障論に対する批判も考察したうえで唱えられた「幸福の保障」という主張です(福島智『盲ろう者とノーマライゼーション』)。どんなに重い障害があっても、それを克服すべく訓練して発達させる、と大人が働きかければ、それは子どもの思いがどうかということに関わらず、時には発達させられる、子どもにとっては発達を強いられる、ということにつながるかもしれません。そして、制度的には、発達=成果、となってしまいかねず、そうなると「成果」に乏しい、あるいはゆっくり、ときには「後退」とも取られかねない重度の子ども・支援の「難しい」子どもは、ますます肩身の狭い思いになってしまうことになってしまわないでしょうか?それは、子どものありのままを認める、あるいは先に挙げた厚生労働省の二つの報告書で謳われる子どもの「ウェル・ビーイング」と考え方(理念)と矛盾することにならないでしょうか?
 ただ、誤解のないように言っておきたいことは、例えば、歩いていなかった子が、自分の足で立って歩くようになることで、見る世界が広がったり、しゃべっていなかった子が、言葉を話せるようになって、自分の気持ち・思いを伝えたり、言葉によって物事の理解が深まったりすることを否定するものではありません。それこそ、その子にとって、よい日々を送ることに繋がっていくであろうことは想像に難くありません。ただ、成長の結果としてそうなった、ということと、そうなるように他者(多くは大人)から強いられるということとは、本人(子ども自身)にとって、全く意味合いは違うものになります。私は、この後者が、子どもにとってより良い日々を送ることになるのか、子どもの思いは尊重されるのか、ということに疑問をさしはさむものです。
 浜田さんが、本の初めの方(p.4)で触れられている哲学者メルロ・ポンテイは、「最も根本的な反省は、非反省的な生活に私たちが依存していることを知ることだ」、というようなことを『知覚の現象学』で述べています。私たちが自明のように思っている価値意識を問い直すこと、そのことをこの本のタイトルは象徴的に語っています。

                                                                     森