「月」を観て~相模原事件を改めて考える

 2016年7月に神奈川県相模原市にある障害者入所施設で起きた多くの入所者が殺傷された相模原事件を題材に書かれた辺見庸の小説「月」を映画化して、昨年公開された「月」を遅まきながら観てきました。当の施設の元職員の犯行で、しかも19人の入所者が殺され、ほかに26人の入所者も傷害を負うという衝撃的な事件でした。事件後報道されたところによると、U被告の、重度障害者は生きる価値のない者で、彼らの存在をなくすことが社会に有益である、という典型的な優生思想に基づく犯行ということでした。ところが被告は、施設に入職したころは、むしろ意欲を持って入所者に接していたと言います。それが、いつのころからか入所者の多くは社会に要らない存在と見るようになった変遷の背景は私にとってはまだ推測の域を出ません(事件後、事件について書かれたいくつかの著書・考察を読みましたが)。よく言われていることの一つに、町中から隔絶された入所施設という閉鎖的なところだから事件は起こったのだということがありますが、もちろんそういう側面があることは否定できないことかと思います。ただ、より本質的な問題は、重い障害があって、自傷や他害が激しい人への支援の難しさに直面した時に、その人たちとどういう関係性を持っていくのか(作っていくのか)のありようです。しかもそれが支援者集団となったときに、知らず知らずのうちに形成される価値観・支援観、その場の空気が持ってしまう恐ろしさを映像はいくつも見せてくれます。フィクションなので、映像ではよりわかりやすく「ここのやり方に合わせてもらわないと(いけない)」「無駄なこと、余計なことはするな」と施設長や職員の口から発せられていますが、そういう時、職員と入所者との関係性はどうしようもない差別性・非人間性を帯びてしまいます。このような問題は、何も入所施設に限ったことではなく、在宅・地域での支援現場でもいくらでも起こりえることです。だからこそ、支援現場の空気・気配がどうなのか、ということは大事です。(そしてそれはなかなか言葉や文字に表しにくく、ゆえに自覚しにくくもなり、厄介です)
 一方で、支援の「難しい」人を集めてきたかのようにして生活空間が作られ、そこに逐次向かい合うことを求められる心性を考えた時にどうしても抱え込んでしまう暴力性にも自覚的でないといけないとも思います。しかしそこには、単に「入所から地域へ」というスローガンでは済まない、地域資源の脆弱さにも目を向けないといけないでしょう。有形無形に見られる重度障害者の受け入れ拒否は、むしろ以前より多くなっているのではないかと私は最近より感じるようになりました。「月」で突き付けられている問題は、決して遠い入所施設の問題とは言えないことを痛感するこの頃です。

                                                                  森