「意思決定支援」がなぜ強調されるのか?
この数年前から、にわかに障害福祉分野で、意思決定支援が強調されるのようになってきました。もちろん、本人の意思を尊重する、本人の決定(自己決定)を大事にする、ということは、障害児・者への支援の基本であって、障害福祉に従事する者にとっては、初めに教えられる(学ぶ)ことでもあって、そのことの大事さに何も附言することはないように思えます。しかし、そうであれば、なぜ近年になって、より意思決定支援が強調されるのか、法定研修では意思決定支援、ということが一つの講義テーマとして扱われるようになぜなったのか、という疑問がついてまわります。本人の意思が尊重されないことが横行・増加して目に余る事態が頻出しているということなのか?いやいやグループホームの再編などでは、多くの障害者団体が、疑問視ないしは反対しているのに推し進めようとしているのは、当事者=本人の思いを尊重していないのではないか?なのになぜ正義の御旗のようなお題目だけ強調されるのか、という悪態もつきたくもなります。と少し考え進めていくと、意思+決定+支援と本来は三つの事柄(概念)をあたかも当たり前のように一つの概念としてくっつけて「意思決定支援」ということが言われ、そんなこと当然でしょ?!、とされることに大いなる違和感を覚えざるを得ません。
そもそも意思は決定されるものでしょうか?意思とは、決定どうのこうのいう前に、ある、のではないでしょうか?例えば、魚が食べたい、というのは自ずから出てくるもの(意思)ではないでしょうか?とすると、意思決定というくくり方自体が、なにがしかの意図があって、そのような概念を作りだしたのではないか、と勘繰りたくなります。そして、「支援」です。すでにある意思を支援するなんて、それ自体が捻じ曲がっているといえないでしょうか?というか、おこがましいことですらあります。もちろん、このことが言われる背景として、その人の意思が他者からはつかみにくい人(例えば、重症心身障害児・者)がいて、その人の意思を知る・確かめる術あるいはスキルが必要だということは確かにあるでしょう。現に、厚生労働省は、意思決定支援のガイドラインとして、他者からは意思が見えにくい・つかみにくい人から意思を汲み取る方策や手順を示しています。このこと自体は、何も頭から否定するものではないですが、昨今、強調される意思決定支援には、そういうことだけではなく、支援者側の決めてもらわないと困る、あるいは、支援の方針を決める時に、確かに本人の思いや意思を聴きましたよ、という言わばアリバイ作り的な臭いを感じてしまうことがぬぐえません(精神科医の本谷研司さんもそのようなことを言っていました)。こう見てくると、意思決定支援って、誰の何のため?、という疑問を手放すわけにはいきません。
意思決定支援をめぐって、支援者ネットワークえぽで、今年4月に開かれたシンポジウムで、コメンテーターとして発言された西川勝さんは、支援費制度以降の利用者(障害当事者)と事業者との契約制度になったことで、障害当事者が自立した、また自律した個人としてあり、裏返せば、利用者(対象者)と支援者が切り離された者としてある、という形になってしまったがゆえに、盛んに言われるようになった、というようなことを言われていました。現在の制度に乗っかって仕事をしている身からすれば、そのことは、踏まえながらも、しかし大事なのは、いろんなことを決めるという時に、どういう共同性をもてるのか、一緒に何かを作っていこうとするのか、と言う姿勢を持つことだと教えられた、と思います。思い返してみれば、制度が整っていない時代は、ボランタリーな精神がなくては、地域に住む障害者の生活を守っていけない状況があったのですが、そこでは面的な広がりというところでは限界があったと思います。とは言え、昨今の状況で見られる市場原理に基づく「サービス」として介助や支援が行われるというドライな感覚は、障害者と健常者との共生社会の形成という視点で見ると、足元をすくわれかねないということを肝に銘じていたいと思います。
森