「幸福の保障」という考え方
福島智さんという盲ろう者で、世界で初めて大学の常勤の教員になった人が、今から27年も前に書いた論文に「『発達の保障』と『幸福の保障』-障害児教育における「発達保障論」の再検討」というものがあります。この論文は、『盲ろう者とノーマライゼーション』(明石書店・1997年)という本に収録されていますが、この論文で展開されている教育論そして福祉論は今でも充分に吟味すべき考え方が紹介され、また福島さん自身の考え方に私は共感します。
今から約40年前に養護学校(今の支援学校)義務化をめぐって、義務化賛成派と義務化反対派に分かれて論争がありました。そもそもそれ以前は、重度の身体障害児あるいは知的障害児で就学猶予や就学免除という措置が取られていることがまかり通っていました。言うまでもなく就学年齢に達した子どもに対して国は教育を受けさせる(準備する)義務を負っていますが(憲法に明記されています)、重度の障害があることで猶予や免除という措置をとることで国の責任を放棄することが平気で行われていたのです。ろう学校(現在の聴覚支援学校)や盲学校(現在の視覚支援学校)は、戦後かなり早い時期に義務化されていましたが、重度の肢体障害や知的障害をもった子どもが学校に行けなかったり、入学が遅れたりということが決して珍しいことではない状況がありました(その実数や率を調べたことはありませんが、私の知人にもそういう人はいます)。
その状態を解消して義務化がなされたのが1970年代の後半でした。一見、国がその責務をようやく果たすことになることで何の問題もなさそうに思えますが、義務化反対派が問題にしたのは、それまで地域の小中学校に通っていた障害児が義務化に伴って地域の学校から排除されるのではないか、という懸念からでした。その子の発達に応じた教育を、という考え方のもとに重度の障害児はみんな養護学校に行かされるのではないか、ということを危惧したのです。
この時、その子の発達に応じた教育を、という理屈の根拠とされたのが、発達保障論ということができると思います。福島智さんが、この養護学校義務化の際に論争があった発達保障論を十数年経った1990年代初めに再検討を行ったのが、今回取り上げた論文です。
福島さんは、発達保障論について一定の評価をしつつも、発達保障論に対するさまざまな立場からの批判を紹介し、そのうえで、発達保障論に潜む二つの危険性について述べています。ひとつは、発達の自己目的化ということです。
障害児教育において、障害児が「発達すること」に至上の価値をおき、その価 値を、”結果”にではなく、”発達すること自体”におくとすれば、発達が自己目的 化され、自己完結的な価値概念として成立することになる。そうすると、「発達 の主体」であるべき個々の障害児が、「発達の価値を実現するための存在」とし てしか把握されないという矛盾が生じてしまう。
ー『盲ろう者とノーマライゼーション』p.310
と述べています。
もうひとつは、教育によって障害児が諸能力を発達させたとして、その能力の現実的な展開をどのように保障しているのか、という疑問について述べています。
このようなことから、福島さんは「発達」「能力」という事に価値をおくよりも人間存在自体に価値をおき、幸福の保障に教育や福祉がどう貢献できるか、ということを問題にしています。
基本的には私は、この福島さんの考え方に共鳴します。ただ、この論文で言われているインテグレーション(統合教育)=現在ではインクルージョンという言葉に変わっていますが、ということで考えると現実には地域の小中学校や高校では生きにくい(行きにくい)子どもが支援学校ではのびのび過ごしている例もいくつも知っているので、もしインクルージョンを進めるなら系統学習一辺倒と言える現在の学校教育を根本的に変えることをしなければ、単なる理想論ないしは運動論に終わってしまう側面もあることは否定できないと私には思えます。
話を「発達」や「能力」をどう見るかということに戻します。
福島さんの問題意識に立てば、今、厚労省も事業所も何の反省もなく、障害児通所事業は、障害児の諸能力の発達を促すことを行うものだと謳ってしまいがちですが、それが子どもの幸福の保障になるのでしょうか? あるいは、子どもの権利条約等で言われる「子どもの最善の利益」とは何か、と考えたときに何のためらいもなく発達を図ること、と言えるのかどうか再考する必要があると言えるでしょう。ですから、実は”児童発達支援”という事業名も、また”児童発達支援管理責任者”という役職名にも私はいささかの抵抗感を感じずにはおれません。
森