「客観的=公平、公正、中立」という思い違い

 私が物事を人に説明したりするときに、決して使わない言葉として、客観性とか客観的という言葉があります。そもそもこの世界を(物理的世界も含めて)捉える時、純粋中立な物差しがあるようには私には思えません。 
 まだ小学生だったころ、社会科という教科の中には、地理や歴史という科目があるというのを父に教えてもらって、高学年か中学生になってから、歴史という科目は、こんな分野なんだと思ったことがあります。そこで、例えば世界の歴史と言えば、ギリシャやローマが出てきて、また古代中国(黄河文明)とかも出てきて、それが世界の人類が作ってきた歴史というものだと、初めは思っていました。でも、少し歴史や世界に関心を持つようになると、その古代と言われる時代にも地球上には、アフリカやアメリカ大陸はあったわけで、どうして古代の歴史で習うこと、また語られることに、アフリカやアメリカやオセアニアは出てこないのだろうとぼやっと疑問に思うようになりました。で、その疑問は、大学生になったころに、安部公房という作家が、コロンビアの作家、ガルシア・マルケスが書いた『百年の孤独』のことを語っているのをテレビで視て、その『百年の孤独』を読んだ時に、滝に打たれたように氷解しました。その小説では、ヨーロッパ人が、アメリカ大陸を”発見”して、やがて南アメリカ大陸にも進出するわけですが、それはずっと以前から南アメリカ大陸に住んでいた者たちにとっては、大陸は”発見された”わけではなく、ずっと昔から自分たちの祖先が日々を営んでいたところに外から侵入者がやってきた、ということを示し、語られていました。つまり、新大陸発見というのは、ヨーロッパ人にとっての発見だったに過ぎなかったわけで、それが世界史の教科書として、正当な歴史として綴られる(語られる)のは、おかしいということを意味しているように私には思えました。(蛇足ながら、今日、「百年の孤独」というとかつての焼酎ブームの火付け役の一つとなったプレミア焼酎を思い浮かべる人の方が多いかもしれませんが、この銘柄名はもちろん、この小説からとられたものです。また、安部公房は、私が愛読していた作家で、もう少し長生きしていれば、大江健三郎より先にノーベル文学賞を取っていたとしても不思議ではないと思われる世界的な作家でした。)
 そして、大学の授業で出てきたメルロ・ポンティやフッサールといった現象学が、解き明かすことは、この世界は主観と主観が重なり合う、あるいは相互に交し合う、間主観性ないしは相互主観性、共同主観性の世界として私たちの世界は成り立っているということでした。
 難しい話になってしまいましたが、『百年の孤独』を読んだことで受けた衝撃は大きく、そのころからそもそも”客観的”と語られることに私は、胡散臭さを感じるようになりました。そもそも、誰かが、客観的という言葉で何かを説明したり、語ろうとするとき、そこには正当性や公平性・公正や中立をうたう常套句として用いられるのをあまた目にし、耳にしてきています。例えば、障害福祉世界で用いられている障害支援区分の設問項目は、支援の必要度を客観的に測る(量る)ため、とされていますが、なぜあのような項目なのか、別の項目は要らないのか、そもそもあの設問項目は、本人自身に関することは数値化するのに、家族関係やその人が置かれている環境に関しての数値化はなぜないのか、疑問だらけです。そして、しばしば客観性の見える化として、数値が物を言うことになってしまっています(障害支援区分もベースは、調査の数値化に基づいて判定されます)。数値化することで、物事の捉え方を単純化する危うさは、ほとんど省みられることがないまま、数字で表されるとわかりやすく、さも正当・公正なものという錯覚・思い違いにともすれば私たちは陥りがちです。
 数字が表す公正性・客観性という錯覚は、ほかにも例えば、発達検査で得られる数値も、参考という程度に捉えないと、その人(子ども)を見る時・捉える時に一面的で平板になってしまう危険をはらんでいると私には思えます。人は、えてしてわかりやすさを求め、わかりやすさに飛びつきやすいですが、その人を知る(わかる)とは、そんな単純なものではないし、その人とじっくり関わっていくことで、ちょっとずつわかっていくものだと思います。だからこそ、客観的=正当、中立、絶対的な物差しなどという論の立て方には、警戒してかからなければならないと思います。

                                            森