「子どもの権利条約」を嚙みしめる
子どもの虐待死をめぐる報道を目にするたび、なんともやるせない気分に襲われます。私たち子どもに関わる仕事をしている者にとっては、直接自分たちに関わるところでなかったとはいっても、同様なことが起こりうることは日々感じるところですし、千葉県の事件にしてもなんとか防げなっかのかと暗澹たる思いにとらわれます。転校、転出してしまうと自分たちの領域(ケース)ではなくなった、という縄張り(縦割り)意識がどこかで働いていたのではないのか、と思うととても他人事とは思えません。
私たちのような民間弱小事業所であれば、自分でもうこれ以上受けることができないと思えば、ケース(相談支援)を受けることを断ることができます。そして、18歳になって学校を卒業すれば、児童ではなくなり、自分の手を離れ、また新たなケースを受けることも可能になります。近隣ではなく、遠方に転居した場合も自分の手を離れます。このようなときに、どれだけ引継ぎをしなければいけないかということに、ひとつひとつ点検できているかというと心もとない場合もあるということに反省させられます。
まして公的機関であれば、ケースを選ぶなんてことはできません。起こった事象、また起こりえる事象に日々、向き合っていかねばなりません。そのことを見れば、例えば児童相談所のケースワーカーが一つ一つのケースにどれだけ注意を向けることができるだろうか、と想像すると、おそらく質量とも足りていないのではないか、ということが容易に推察されます。国は、ケースワーカーの人員増を計画するといいますがどこまで実効性があるでしょうか?
かくして、子どもが守られなかった、ということが後を絶ちません。
国際連合で採択され、日本では1994年に批准された子どもの権利条約は、子どもの権利として、生きる権利、守られる権利、育つ権利、参加する権利の四つがうたわれていますが、私たちの仕事は、常にこのことをしっかり肝に銘じてあたらなければならないと思います。
生きる権利、守られる権利は、改めて言うに及ばずですが、育つ権利とは、それは単に教育を受ける権利とだけで終わるものではなく、いっぱい遊んで、そして知りたいことを知って学ぶ、また友達ができて人とやり取りを重ねていくこともできる機会や場、関わりがちゃんとあるということを意味すると思います。参加する権利とは、発言主張ができて、グループを作って活動したり、また発する意見は、可能な限りそれが尊重されるということも意味します。
これらのことが、まだまだ確立されていない、あるいはないがしろにされていることを見逃さず、またそのことに目をつぶらず、子どもが、つまりは人が、一人一人、大事にされることを、実現していくことが私たちの責務であると思います。であれば、日々の目の前のことに忙殺されるばかりでなく、ちょっとした思い、ちょっとした心配りができるかどうか、それだけでも変わりえる部分はあるのではないかと思います。
森