「レナードの朝」から教えられること
映画好きなので、ついつい映画を観て感じたこと、思ったことを取り上げることが多く、映画を観たことがない人には何のことか、ピンと来ないことも多いかもしれないことをご容赦ください。と、前置きしましたが、この年末に久しぶりに「レナードの朝」という今から約30年前の映画をDVDでゆっくり観ました。もう何回となく観てきている映画ですが、今回、今までにない発見というか触発されたことがあり、今回はそのことについて綴ろうと思います。
アメリカ合州国(とあえて、私はそう書きます)のとある精神科の慢性期病棟に赴任した若い医師が、嗜眠性脳炎(しみんせいのうえん)という難病患者に出会い、一見無表情になってしまい、何の意思も喪失してしまって、身辺的なことも全面的な介助を受けなければ生きていくこともできない患者のある小さな変化に気付きます。医師は、彼らは感情や意思を喪失したのではなく、身体が強度に硬直して体を動かすことがほとんどできなくなっているだけで、彼らの内にある感情や意思を見出し、そのことを同僚の看護師や医師たちに懸命に伝えていきます。
そしてパーキンソン病に対する新薬が、この難病の治療にも有効ではないかと見て、病院関係者の賛同を得るように働きかけ、新薬を使い始めます。何日も費やして、その見立て通りに服薬は効果を発揮し始めて、ある患者が口を開き「今まで自分は長い間、眠っていたようだ」というようなことを言います。そこから日ごとに症状は改善し、日常生活の多くを自力で行えるようにまで回復します。何十年もの間、何の反応も見られないように思われた他の同じ症状の患者にも投薬を行い、同様に症状は驚異的な改善を見せるようになります。
ところが、その効果は長続きせず、薬の副作用でまた彼らは体が震えるようになり、日ごとにそれは激しくなり、やがてまた自分で体を動かすことができなくなります(また話すことも)。映像はここで終わり、テロップにその「セイヤー医師は、ずっとその病院に勤めていて、患者の治療にあたっているが、1969年夏に見られたような劇的な症状の改善は見られない」、とつづられて映画は幕を閉じます。
実話をもとにしたというこの話は、新薬の服薬で驚異的な回復を見せたのに、また話すことも自分で体を動かすこともできなくなった、という話の終わり方でやるせない気分に見舞われたという印象が強い映画でした。それでもこの映画に魅かれていたのは、主役の二人(医師役のロビン・ウイリアムスと患者役のロバート・デ・ニーロ)の持ち味によるものが大きいと思っていました。もちろん、この思いは今回観たときも変わりがない部分ではありますが、今回は新たな発見もありました。
というのは、患者は、一見症状は、新薬投与以前のように自分ではほぼ何もできず、感情を表すこともない、植物的な状態になったように見えるようでも、患者に関わるスタッフは誰も、彼らが意思も感情も持たない人ではなく、内面ではさまざまな感情や思いを持った人であることを知っていて、(患者とスタッフが)思いを交わし合う存在として接するようになったのだと見られたことです。以前は、彼ら(患者)が意思も感情も持たないものとして接していた病院スタッフ(医師、看護師…)が、セイヤー医師や患者自身に導かれるようにして、どの患者にもさまざまな感情や思い・意思があることをわかって接するようになったのとでは、雲泥の差があります。
私自身これまで幾人かの最重度の心身障害者に出会い、関わってきているのに、この映画のこんなメッセージにも気づいていなかったのか、と反省させられる機会となりました。セイヤー医師はこう説きます、「人間の魂は、どんな薬より強い」と。
昨年11月に受けた「意思決定支援と自己決定をめぐって」という研修を思い返しながら、本人の意思・思いを大事にすること、でも本人の思いと支援にズレが生じることもあるということ、の両方を見ておく必要があると思いました。(このことは、「レナードの朝」でも覚醒した患者と病院スタッフとの間で起きた衝突でも見て取ることができます。)そして、ここにこそ私たちの仕事の難しさもあって、だからこそ意義もあるのだと思います。
森