「どうしたら普通になれるの?」
つい数日前、2年前に公開されていた「真白の恋」という映画を観る機会を得ました。軽度の知的障害の女性の恋をめぐって、家族が心配したり、その女性・真白を応援するいとこがいたり、その葛藤を描いている映画でした。ただ劇映画(フィクション)なので、わかりやすいセリフがあったり、エピソードにも作り物めいたところがなくはないですが、本質的な問題に迫ろうとしているスタンスは感じられました。
年頃の女性が、ある男性に恋をするというごくあたりまえのことをやさしく見守る人がいて、一方で男性に騙されているのではないかと警戒し、男性を遠ざけようとする父がいて、そこにいわゆる世間体を気にする人もいて、当の真白は憤りを覚えます。男性との関わりを絶とうと父は娘に外出を禁じます。そこで真白が思わず発した言葉が「どうしたら普通になれるの?」というストレートな思いでした。また真白のことを障害があって、社会にうまく適応できないという人に向かって、真白に魅かれる男性が「それだったら、僕も社会にうまく適応できていない。障害って何?」と問うような場面もありました。
一方で、その男性に対して警戒心を抱き、真白を「守ろう」とする兄も、知人から妹が障害を負っていることについて発せられた「きれいなのにもったいないね」と何気なく言った言葉に対して、毒気を込めて「何がもったいないんだ?」と返します。
今、おりしも旧優生保護法によって、断種・不妊手術を受けさせられた障害者が国を訴える裁判が起こされていますが、たとえ法が変わっても、世間の人たちの意識が変わらなければ、生きていて当たり前に経験するであろうことを障害者であるがゆえに制限され、あるいはあきらめさせられ、ということばかりに覆われてしまうでしょう。
男性が、真白の父に向って、それまでの二人で過ごした機会について「配慮が足りなくてすみませんでした」と頭を下げるシーンがありますが、何をどう配慮すればよかったのか、と逆に思ってしまいました。映画では、男性が人に指摘されるまで真白の障害に気がつかなかったということになっていますが、そうであって何か常識を外した行動を彼が取っていたわけではありません(少なくとも私にはそう思えました)。とすれば、何をどう配慮することがいいのか、あるいは配慮ってそもそもこの場合は必要だったのか、とも思えます。映画も別にそのことに答えを出しているわけではありません。むしろ、私たちに問いを残していると思えました。
何回か前のこのブログでも触れた障害者(児)本人の思いと支援のズレ。大切なのは、何がなんでもズレを失くすということではなく、また逆にズレを無視するのでもなく、ズレをしっかり意識しながら、何がどうすることが、本人がより良いと思える人生を歩めるのか、ということに目を離さず関わっていくことだと思います。
蛇足の話。今回、この富山が舞台になったしかも2年前の映画を、たまたま沖縄石垣島に昨年8月にできたゆいロードシアターという映画館で観ました。もともとその予定はなかったのですが、沖縄八重山を旅していてあいにく雨にあってしまったために、宿の主人に教えてもらった映画館でこの映画を観ました。休日の昼というのに観客は私を含めてたった二人。石垣島では、この10年20年は、映画館ができては数年で立ち行かなくなるということの繰り返しのようで、地方ゆえの苦闘は相当なものと想像されます。映画が好きな私にしてみれば、地域に映画館や文化施設がちゃんとあってくれたらなあと思います。文化にお金が使われるということは大事にしたいことだと思います。それが人を作っていくものだと思うからです。
そうそう、その映画館がある建物の1階には山田書店という本屋さんもあって、沖縄ならではの棚もあって、貴重です。ネット販売に負けず、地域の本屋さんも存続していってほしいと思います。やはり本屋さんに行けば、思わぬ発見もあるので、街に特色のある本屋さんがあるのはうれしいものです。
森